*さいはての西*

fwest.exblog.jp
ブログトップ

『フランケンシュタイン・コンプレックス : 人間は、いつ怪物になるのか』 小野俊太郎著(青草書房)

あなたも「怪物」になる種子をもっている!―自分を生んだ「父」に拒否され、「怪物」になっていく醜い「息子」。「父と子」「生命創造」「人工知能」…。200年前、20歳の少女が書いた怪奇小説『フランケンシュタイン』には、いま、我々が突きつけられている今日的な問題が、恐いほど予兆されている。『フランケンシュタイン』『ジーキル博士とハイド氏』『透明人間』『ドラキュラ』そしてスピルバーグの『ジュラシック・パーク』『A.I.』『ミュンヘン』の、ぞっとする読み方。(Amazon.jp)


あまぞんさんから内容紹介を引用させていただきましたが、こういった「いかにも」な内容ではなく、いたってまじめな文学評論の本だと思います。

マイナーな出版社から出ている本ですが、なかなかの良品でした。
せっかくの良品なのに、タイトルが残念。
ちょっと「売らんかな」的あざとさを感じてしまいますし(とか言いつつ釣られている自分がここに(笑))、タイトルとサブタイトルに、これだけ見ているとズレがあるように思います。
内容を読むとつながっていくのですが。(…だったら、いいのかな。(笑))

「フランケンシュタイン・コンプレックス」とは、(今さらわたくしがご紹介するのも口幅ったいですが)SF作家であり『黒後家蜘蛛の会』というステキ短篇シリーズを繰り出したミステリ作家でもあった、アイザック・アシモフが名付けた概念です。
元々は自分が創り出したロボットに人間が殺されるのではないかという恐怖などのことを言うようですが、転じて、「父」が「子」に殺されるのではないかという恐怖のように拡大的に解釈されることもあるようです。(ここでいう「父」「子」は生物学的な親子という意味ではありません)

本書でもまず最初に語られるのですが、「フランケンシュタイン」というと、ボリス・カーロフが主演した映画と、その後続のフィクションの影響で「怪物=フランケンシュタイン」だと思われていることが多いけれども、フランケンシュタインとは、原作で「怪物」と称される擬似生命を創り出した若き科学者、ヴィクター・フランケンシュタインのことです。

内容ですが、まず前段「ブラックボックス時代の怪物」で、現代は「ブラックボックス」が氾濫する時代であることが説明されます。
ここでいう「ブラックボックス」とは、「入力」と「出力」の因果関係やメカニズムが外からはわからないもの、例えば電化製品や自動車など、「使える(操作できる)けれども原理やメカニズムはわからない」=「故障しても自分では修理できない」ものを指します。

そして、第1章はタイトルロールでもある『フランケンシュタイン : あるいは現代のプロメテウス』(メアリ・シェリー)、第2章では「怪物になることの恐怖」として、『ジーキル博士とハイド氏』(スティーブンスン)、『透明人間』(H.G.ウェルズ)、『吸血鬼ドラキュラ』(ブラム・ストーカー)、第3章では「怪物を生みだすことへの恐怖」として『チャタレイ夫人の恋人』(T.H.ロレンス)、『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー)、『渚にて』(ネヴィル・シュート)から、最後は「怪物にとりつかれたスピルバーグ」として、『ジョーズ』『ジュラシック・パーク』『A.I.』『マイノリティ・リポート』『宇宙戦争』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『ミュンヘン』が語られます。

『フランケンシュタイン』と『吸血鬼ドラキュラ』の2作は最低でも読んでおいた方がおもしろいし、そうでないと踏み込んだ理解がちょっとむずかしい内容ではあるかと思いますが、シンプルでわかりやすい文章で語られますので、それだけでも十分興味深く読むことが出来ると思います。(わたくしは『透明人間』と『チャタレイ夫人の恋人』と『すばらしい新世界』は未読、実は『ジョーズ』も『ミュンヘン』も見たことがないのですが、十分おもしろく読ませていただきました。『すばらしい新世界』はとてもおもしろそうなので、ぜひ読まなくっちゃ!と思いました。ディストピアものだったとは存じませんでした。)

『フランケンシュタイン』は、原作がたいへんおもしろいので、未読の方にはぜひオススメいたします。
『吸血鬼ドラキュラ』も平井呈一訳は古典落語のようで、こちらも個人的にはたいへんオススメです。(ドラキュラが「今夜は、豪儀と早いな」とか言うんですよ。けっこうかわいいし)ドラキュラがイギリスにやってくるまでのはい上がってくるような湿った恐怖が秀逸です。どちらも当時ホラー小説で流行していたという書簡形式で語られるので、取っつきが多少悪いかもしれませんが、少し読んで慣れたらもうノンストップです。

『フランケンシュタイン』を初めて読んだとき、なんて幼稚で自己中心的で不愉快な主人公(=ヴィクター・フランケンシュタイン)なんだろうと思いましたが、「神ならぬ身が生命を生みだす、その生き死にを左右する」ということは、神への冒涜であるという恐怖もあいまって、たいへんな重圧だったのだということが理解できると、また違った読み方ができるように思いました。
この作品を200年前の20歳の少女といってもいいような女性メアリ・シェリーが書いたということは驚きですね。…といっても今の人よりずっと大人になるのが早いですから、メアリさんは17歳で妻子ある男性と駆け落ちして20歳の時点ではすでに子どもを産んでいるので、もうがっつりマダムだったわけなのですが。(今だったら、相手の男性、未成年相手に犯罪ですよ(笑))
もうがっつりマダムだったから「大人の女の目」で構築された世界の主人公であるヴィクター・フランケンシュタインの幼稚さが鮮やかに描き出されるということなのだと思いますが。(ヴィクターの周囲の家族や親友は、逆にちょっといい人たちすぎるのですが…)

人間は神がその似姿を創造されたものである、というキリスト教文化圏の文化的継承がない日本では、人間と「それ以外」のものとの境目がある意味あいまいです。
例えば、犬や猫と人間と相手をするように話をしている人がいても、別におかしい人だと思いませんよね? 
でもキリスト教文化圏では「頭おかしいんじゃないの」と思われるそうです。それは人間と同じような「魂」を持っていないからで、だから英語では動物を代名詞で受けるときは物と同じ"it"で受ける。物と同じだという前提があるのですね。(それを言うと日本の法律でも、他人の飼い犬を勝手に持っていっても窃盗で、誘拐にはなりませんが)(ドラマ『バーナビー警部』を見ていたら、バーナビー警部が犬(だったかな猫だったかな)としゃべってたら、娘さんに「お父さん、頭おかしいと思われるわよ!」と言われるシーンがありました)
物も百年たったら魂が宿って妖怪になると思われているような国では、ロボットのように生き物ではないものが、まるで人間のように動いたり話したりすることに対する抵抗が少ない。だからこれだけロボットもののアニメやマンガが大流行し、ロボット工学も世界の最先端であり続ける。
反対に、だから、今まで生きて動いていたものが、動かなくなったからといって、もう物と同じだというふうにはなかなか考えられない。だから、日本では脳死は完全な人の死であるという考え方に対しては抵抗が大きいのだ、ということが、本書でも語られます。

これは、そんな日本人の一人である自分の考えかたなのかもしれませんが、やはり「怪物」は人間の中からしか生まれないものだと思います。

そしてその半面、ちょっと、I.B.シンガーの『お話を運んだ馬』(岩波少年文庫)所収の「お話の名手ナフタリと愛馬スウスの物語」に出てくるセリフも思い出しました。(I.B.シンガーはユダヤ系の作家です)
人間の頭は物語を創造するのに向いていない、創造するのは神さまのお仕事で、それはここ(とひたいを指して)から来るのさ、というようなセリフがあったと思います。(今本が出てこなかったのでうろ覚えですみません)

どちらも真実のような気がしますが、いかがでしょうか。
[PR]
by n_umigame | 2009-12-02 21:43 | | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://fwest.exblog.jp/tb/10510619
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。