ギリシャの哲学者プラトンはアトランティス王国の文書を求め、旅に出る。旅先のエルカシアでプラトンは太陽のような明り(タウブ)、高度な調味料を使った食材、グラウス(ガラス)と今までに見たことのない高度な技術を持った文明に出会う。プラトンは、エルカシアの宗主にアトランティスがなぜ滅んだのかを訊ねる。宗主は「その問いはあなた自身で見つけることになる」との謎の言葉を残す。プラトンはその地で横になり、目が覚めると自分がアトランティスの司政官オリオナエであることを自覚する。
オリオナエは国王アトラス7世、先王ポセイドニス5世から王国のアトランタ地方への移動を強く求められていたことに苦しんでいた。しかし、2人は惑星開発委員会の要請に基くものであるとして強く移動を迫る。王国は移動を試みるも失敗し大惨事に襲われ、王国の繁栄は一夜にして崩壊する。プラトンは再び目が覚める。体調を取り戻したプラトンは西北の地TOVATSUEへ向うという。これが時を超えた遥かなる旅の始まりとなる。
シッタータ(釈迦)は釈迦国の皇太子であったが世の無常を感じて出家し、トバツ市にて梵天王から破滅の相を聞かされる。疑問を抱いた彼は阿修羅王と会うことを決意する。
一方、ナザレのイエスはゴルゴダの奇蹟の後、大天使ミカエルにより地球の惑星管理員に任命される。
“シ”の命を受けたという惑星開発委員会の真意とは? 弥勒の救済計画とは何か、様々な謎が彼らの前に立ちはだかる。(Wikipedia)(原作)
昔読んだ記憶があるのですが、『聖☆おにいさん』を読み返していたらむしょうに読みたくなりまして、再読。
中学生のときは、筋はわかったけど、これってSFなの? という軽い感想しか出てこなかったのですが、今読み返すと、これがいまだ読み継がれている理由がよくわかります。
けれども、この作品を読んでいたおかげで、『マトリックス』がつまらなかったです。どうしてくれよう(笑)。
「”存在”とは何か」という深い深い、そして気の遠くなるような、おそらく生きている人間が解くことはできない、「謎」。
どちらかというともう哲学の領域に踏み込んだ壮大なテーマであった、という点で、中学生のわたしが「これってSFなの?」と思ったのでしょう。
今でもそう思います。
手塚治虫先生の『火の鳥 鳳凰編』にも通じるものがあるように思います。無限大にも無限小へもどこまでもどこまでも果てがない世界観、波のように寄せては返す、くりかえし循環するイメージ、そして多元的な「宇宙」をまたいで存在する超越者の存在。
もし、宇宙が「無」から発生したのだとしたら、「”無”というものの存在」をどう説明するのか。そもそも「無」とは何か。
こうして感想を書いているだけで気が遠くなってきました。
『聖☆おにいさん』と違って、ナザレのが悪の手先の小悪党として登場し、原作とは違ってイスカリオテのユダが非常に魅力のある萩尾解釈のユダになっているそうです。
こういう作品が先達としてあったから、そして今も読み継がれているからこそ、日本の漫画作品は裾野が広いのでしょうね。
「なぜ! なぜ! なぜ!
神ならば!
なぜわれわれを こんな目にあわせるのだ!」
「あれは鬼です!
戦いの鬼です!」
「阿修羅には 願いは ないのか?
失うものが ないのか?
鬼とて この世の者であるなら 同じ希望を 持たぬのか……?」
「太子! 波羅門のいう
兜率天浄土に 弥勒という 沙門のありて
この世の末法に 現れ出でて 人々を救うと」
「ではいったい
五十六億七千万年後に なにが起こるというのだ?」
「まこと 救いの 神ならば
破滅の 到来をこそ 防ぐべきだ!」
「……救い
だから 阿修羅は 戦っているのか
神を信じられぬ この鬼は……」
「太子
人間は孤独であるより 悪とともにあった方が
よいと見えるな」
「じいちゃん じいちゃん
あれは 何なの?」
「こうら そんなに身をのりだすんじゃねえ ユダ」
「でも あれは?」
「恐ろしや… シーッ
「あれは背徳の ソドムとゴモラの街じゃよ
神の怒りをうけ 水底に沈んだのじゃ」
「神の怒りをうけ……
裁きをうけ…
神とは 裁くものなのか?」
「そんな役目でもなけりゃ なんでオレを疑ってるおめえをそばにおいとくよ
歴史がいいつづけるんだ
うらぎりもののユダ!
おめえは永久に 罪人だ!」
「神! ごう慢で わがままで 生けにえを求め
われらを裁く神!
従属を強いる神!
わたしは 神を 憎む!」
「…わたしには わからない
わたしには 信じられない
神とは
わたしの 知っている 神とは……
人々を導き 救うものだ……」