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『いまファンタジーにできること』アーシュラ・K・ル=グウィン著/谷垣暁美訳(河出書房新社)

『指輪物語』、『ドリトル先生物語』、『少年キム』『黒馬物語』など名作の読み方と、ファンタジーの可能性を追求する最新評論集。「子どもの本の動物たち」「ピーターラビット再読」など。(出版社HP)


原著は2009年に刊行された"Cheek by Jowl"だそうです。
帯によると2010年のローカス賞を受賞したとのこと。たいへん遅まきながらおめでとうございます。

あとがきにもありますように、内容的にはル=グウィンのファンには特に新味のないものと言えるかもしれません。『夜の言葉』をお読みになった方であれば、「ル=グウィンさん、ぶれない人。」という感想をお持ちになるのではないかと思います。わたくしもその一人です。
だからと言って、じゃあ読む価値はないかというと、そんなことは決してありません。わたくしなどは惚れ直しました(笑)。
『夜の言葉』はわたくしの持っているのは岩波書店の同時代ライブラリー版なのですが、その後岩波現代文庫に改訂版が収められました。Amazonの書評などから伺い見るに、この改訂版には同時代ライブラリー版から時を経て、ル=グウィンさんらしい、真摯で率直な改訂が加えられている様子です。

特にわたくしは『ゲド戦記』の大ファンで、今となっては幸せなことに4巻が出てかなりたってから初めて読んだファンでもあったことから、ル=グウィンさんが物語を紡いでゆく姿勢に、なんて率直で真摯な人なのだろうとすがすがしい思いを抱くことが多いです。
「過ちを改むるに憚ることなかれ」ということわざを、作品を発表し続けることで生きて実践されていると、実感する作家さんです。
(同様の思いを実はエラリイ・クイーンにも抱いています)
自分が「これはおかしいのではないか」と思ったら、読者になんと言われようともこれまでの<成功した>作品世界をぶちこわすくらいの覚悟がある。いつまでもトライし続ける。けれども、芯はぶれない。
その姿の堂々たる美しさに惚れてしまいます。

もちろん古くからの読者には「前の<成功した>スタイルの方が良かった」と批判を受けることもあるのですが、「変わり続け、世に問い続けてきたからこそ、この作家さんは素晴らしい」と、そのすべてを愛さずにいられないわたくしのようなファンもいます。
それはめまぐるしい流行に媚びを売って変わり身するということとは似て非なるものです。

あとがきでも訳者の方が、「この本の魅力は、読んでいる間じゅうずっと、ル=グウィンがそばにいるような強い存在感ではないか」と思う、それは「この人の類まれな正直さ、知的な面での誠実さ、倫理性の高さによるものでは」ないか、と書いていらっしゃいますが、おそらくそのとおりなのだろうと思います。

内容は児童書や図書館の関係者に対して行われたエッセイ集なので、ものすごく堅苦しいものと思われる向きもあるかもしれませんが、なんのなんの、わたくし電車の中で何度も吹き出してしまい、本で顔を隠すはめになってしまいました。この前にダグラス・アダムスの『これが見納め』を同じように電車の中で肩をふるわせながら読んでいたので、もう沿線の不審者になってんじゃないかと心配です(笑)。

一部だけご紹介しますと…
 もちろん、善と悪の戦い(中略)についてのファンタジーは山ほどあります。それらの作品では、白い帽子や白い歯を目印に、善玉を悪玉から区別できます。行動によってではありません。行動はみんな同じですから。思慮のかけらもない暴力がひっきりなしに続きます。血腥い暴力の最後の饗宴の中で、いわゆる「悪の問題」が雲散霧消し、善玉組に勝利がもたらされるまで。


(年齢にかかわらず)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、要求します。これは悪い、これは善い、と言ってほしいのです。(中略)しかし、(疑われることのない)善と(検証されることのない)悪との間の戦いと称するものは、物事を明快にする代わりに、ぼやけさせます。それは、暴力についての単なる言い訳にしかなりません。それは、現実の世界の侵略戦争と同じくらい、浅はかで無益で卑劣なものです。


 フィクションの創作を教えるコースで、不適切な基準を与えて作品を評価させるのは、生徒にとっておもしろく、学ぶことの多い練習になるかもしれない。


これは皮肉で書かれています。(笑)以下、『指輪物語』『白鯨』『高慢と偏見』が例としてあげられるのですが、笑ったのが最後の『高慢と偏見』。
 『高慢と偏見』をウェスタン小説として批評せよ。(全編お粗末な出来。女たちのおしゃべりばかり。ダーシーは好漢だ。一流のカウボーイにだってなれるだろう----どうせ、あのパンケーキみたいに薄べったいイギリス鞍に乗るんだろうが。とはいえ、フィッツウィリアムなどというお上品なファーストネームでは、ワイオミング州で成功するのは不可能だろう。)


ル=グウィンさんの趣旨は、ファンタジーやミステリーといったジャンル小説が批評されるとき、いかにお門違いな観点から批判されているかということです。

ただ、上の引用からもおわかりかと思いますが「ファンタジー」と名の付くものに何でも甘い顔をするということではなく、特に文芸批評家たちのジャンル内での知識の少なさ、不勉強さも批判されています。
魔法使いの学校というすばらしく新しいアイデアのファンタジーがあるから読みなさい、と薦められたので自分の作品(『ゲド戦記』)のことかと思ったら、イギリスのあれだった(笑)、というくだりは、ル=グウィンさんのあきれ顔と書評家諸子の不勉強に対する怒りが目に見えるようです(笑)。(ちなみに『ゲド戦記』の初版は1968年で、その後ずっと絶版になったことはありません)

また
 子どもやティーンのためのフィクションの批評はたいていの場合、それらのフィクションがちょっとしたお説教を垂れるために存在するかのように書かれている。曰く、「成長することはつらいけれど、必ずやりとげられる」。曰く、「評判というのはあてにならないものだ」。曰く、「ドラッグは危険です」。
 物語の意味というのは、言語そのもの、読むにつれて物語が動いていく動きそのもの、言葉にできないような発見の驚きにあるのであって、ちっぽけな助言にあるのではないという考えが、これらの書評家の頭をかすめることはないのだろうか?


故河合隼雄さんも「子どもになにかを教えてやろうという人は、児童文学は書けない」とおっしゃっていたのを思い出しました。

ファンタジーや児童文学に興味がない方も、本や物語を読むということを考えさせられる一冊となっていますので、ぜひに。
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by n_umigame | 2011-09-18 18:45 | *le guin/earthsea* | Trackback | Comments(0)
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