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*さいはての西*

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『レーン最後の事件』エラリー・クイーン著/越前敏弥訳(角川文庫)角川書店

歴史に残る驚愕のラスト。これぞ、「予想のつかない犯人」の決定版!

サム元警視を訪れ大金で封筒の保管を依頼した男は、なんとひげを七色に染め上げていた。折しも博物館ではシェイクスピア稀覯本のすり替え事件が発生する。ペイシェンスとレーンが導く衝撃の結末とは? 決定版新訳!
(出版社HP)



『Zの悲劇』から登場したペイシェンス・サムが引き続き探偵役を担う本作品。
再読です。
率直に申し上げて、やはり単体のミステリとしてはかなり微妙な作品と言わざるをえないように思います。
クイーンらしい、消去法で徹底的に「ほかの可能性」を潰し込んでいくクライマックスの部分は読んでいて楽しいのですが、ここもまたクイーンらしく動機がいまひとつ…いまふたつアレでして、ミステリとして技巧を懲らそうとしたことが小説としてはトホホな結果を招いてしまったのではないかと。
ので、パズルが楽しければ何でもいいという方以外には、あまりオススメできないかもしれません。

それからなんですが、この作品。
初めて読んだときは『Zの悲劇』初読時と同じく、ペイシェンスと、今回はその彼氏(?)ゴードン・ロウ青年があまりにうっとおしく肝心の筋が頭に入らないこともままあり、さりとてこのキャラクター二人を無視して読み進むには出が多すぎ(探偵役がペイシェンスだし)、例えるならば耳元に蚊がぷいいい~んと飛んでいるのを我慢しながらの読書で、苦行のようでした。
今度から”ペイシェンス+ばか男子”を「モスキート★アベック」と脳内で呼ぶことにします。(あえて「アベック(死語)」でお願いします)
今回は新訳が読みやすいということもあって、と言うよりは、もうそれだけが大きな救いと推進力となり、初読時ほどいやな汗はかかずに読み終わることができました。
本当にありがとうございます(泣)。

しかし、本当にエラリー・クイーンって、若い男女を描くのがへたくそですよねえ……。
口とか身振りとかでは大騒ぎしてるんですが、それがものすごく空々しいので物語の興を削ぐことはなはだしいです。
これが中高年以上の男女となると、そうでもないどころか、『クイーン警視自身の事件』を読んだときは「なんてラブコメ巧いんだ」と笑い転げながら読んだ記憶があるので、この落差が謎なんですよねえ……。
(「昔の作家なんだからしょーがないよ」という方もいらっしゃいますが、アガサ・クリスティーもメロドラマと言われ、ご都合主義な展開になることもありますが、全然イライラしたことないですよ? 文章もクイーンみたいに粘着質じゃないっていうのもありますが(笑))


以下、ネタバレです。
ドルリー・レーン・シリーズ全般のネタバレになっておりますので、過去3作も未読の方はここで回れ右でお願いいたします。























実はわたくしは、探偵としてはエラリイ・クイーンよりドルリイ・レーンの方が好きです。
「好き」と言うと語弊があるのですが、エラリイが永遠の「いい子ちゃん」で終わったのに対して、レーンは『Yの悲劇』『最後の事件』で人を殺し、その罪の重さに耐えきれず結局自滅していくからかもしれません。

エラリイも中期以降、自分の推理で下した結論が罪もない人を死なせたことについて泣いたりしていますが、だいたい作品一回限りの後悔です。(例外的に『十日間の不思議』→『九尾の猫』の流れがありますが)
シリーズ…つまり人生を通してそれを己の十字架として背負ったかというとそんなことはなく、『最後の一撃』から想像するにおそらく「畳の上で死んだ」のだろうと思われます。(エラリイに関しては『アメリカ銃』で人が死んだことについて「これは自分の責任ではない」と自分に言い聞かせるシーンがあり、「いったいどういう神経してんだ」と思ったこのシーンが決定的な要因になって、いまだにエラリイ・クイーンというキャラクターが積極的に好きになれません。『アメリカ銃』ではクイーン警視が満身創痍で捜査にかけずり回っているのに対して、エラリイの態度があまりにもあんまりだった、ということが理由のもう一端であることも申し添えておきます。(笑)解説で同様のご感想を読み、良かった、自分だけがそう感じたんじゃないんだと思った覚えがあります。まあエラリイに先立たれてしまうとクイーンパパが再起不能になるので、そんな展開にならなくて本当に良かったとは思いますが。)

自分の手が汚れていることを自覚している大人と、そうではない子どもの対比として、レーンとエラリイ二人の探偵シリーズを読んでいました。
エラリイには実父のクイーン警視以外にも、クイーン警視が物語上で不在の場合は父性的なキャラクターが補完する話が多いのも、ある意味象徴的だと思ってきました。
エラリイは<父の子>であり続けたキャラクターでした。

ペイシェンスだけでなく、狂言回し的重要キャラであるサム警視もしみじみ、あまり魅力がないキャラクターだなあと改めて思ったのですが、この鈍さ、無邪気さ、屈託のなさが、背筋がぞっとするようなそら恐ろしい効果をあげているということに、『最後の事件』で気づきました。『Yの悲劇』のラストシーンもそうですが、今回の『最後の事件』でもそうです。
サム警視のような人が実在したら、上意下達の組織ではこの無神経なまでの一直線さは重宝されることもあると思うのですが、フリーの私立探偵でコネを顎で使うような強権的な性格や(警官だったころの身振りが抜けていない)、この鈍さは、最初のうちは義理で言うことを聞いてくれていた人たちからもいずれは見放され、鈍さゆえにその理由がわからず、やがて零落していくという悲惨な行く末まで想像してしまいました(笑)。それを証拠に(?)『最後の事件』には『Y』までのレギュラーキャラクターだったブルーノが出てきません。
ブルーノは『Z』の頃には知事になったそうですが、鈍感すぎるサムとは違って『Y』のラストでは真相を理解し、レーンの危険な一面を知ってしまいました。なので、相変わらずレーンを盲目的に信用しているサムからも距離を取ろうとしたのではないでしょうか。
こうやってサム警視は次々と、ふつうの感性を持った人から距離を置かれていくのではないかと。

そこで『Z』でペイシェンスが何の脈絡もなく振って沸いてくるのですが、ペイシェンスは『Y』でレーンがしたことを知らない。なぜなら父親のサム警視が気づいていないので、それをペイシェンスに話して聞かせるような人がいないからです。
『Z』ではペイシェンス自身も酷薄な性格の一端を見せていますが、一方で「レーンさんてステキ」と思っていた。レーンの名前みたいに改名したいとまで思っているペイシェンスは完全にレーンを自分と重ね合わせて見ていたのだと思います。
しかしレーンになるということは、自分が裁きの手だと思い上がることであり、(客観的にその必然性が疑わしい場合も/自分の論理で)人を殺すことも辞さないということであり、その人の血で汚れた自分の手を毎日見ながら生きていくということです。
人格に故障がない健康な人間であれば、耐えられることではないと思います。

レーンの遺言になった、ペイシェンスに対して「お嫁さんになって人生終わりなさい」(かいつまみました/いずれにせよロウみたいなのが旦那になったら女性は働けないと思います)というような「助言」は、世界を俯瞰するがごとき推理ができたとしても、やがてそれは自分の手が神の手にでもなったかのような危険な誘惑にかられ、人生が破滅することもあるということを言いたかったのかもしれません。レーンなりに。

いろいろと言いましたが、4部作読んでみてください。
モスキート★アベック超ウザいですが、そこはひとつ我慢してください。ちょっとじんましんとか出るかもしれませんけど。(イヤだよそれ)
「シリーズキャラクターは聖域である」=「犯人ではない」という安心感をぶっちぎったのが1933年だったという点では、クイーンはおそろしい作家だと思います。
そして、<名探偵>の酷薄さにだんだん疑問を感じ、それを新しい作品として長年にわたって世に問い続けた点ですばらしい作家だと思っています。
by n_umigame | 2011-10-07 23:14 | *ellery queen*