*さいはての西*

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『かいじゅうたちのいるところ』(2009)

NHK BSプレミアム吹き替え。
1963年に出版されて以来のロングセラーであるモーリス・センダックの絵本の映画化。
映画館へ見に行きたかったのですが、見はぐりました。


けっこう賛否両論に分かれたようですが、これは完全に大人向きの映画ですね。
原作の絵本も多様な解釈を許すお話で一筋縄ではいかない作品だと思いますが、映画にするに当たって加えられた解釈をよしとするかどうかで、かなり評価が分かれる作品だと思われます。

わたくしはとてもおもしろかったです。途中少し退屈でしたけど。
これは大人が子ども時代を振り返って、子どもの頃のあの言いようのない孤独や疎外感を描いた作品です。
もし、子どもの頃、孤独でも疎外感を感じたこともなかったという幸せな人がいたら、あまりこの映画に共感できないのも無理はないかもしれません。


以下ネタバレにつきもぐりますね。










絵本の原題は"Where the Wild Things Are"。
この「the Wild Things」を「かいじゅうたち」と訳されたのは神宮輝夫さんが初めてだったそうですが(Wikipedia)、これは絵のイメージからこう訳されたそうです。
絵本としてはしっくりきますし、楽しいので、名訳だとは思いますが、あまりにもビジュアルとしっくりきすぎて「かいじゅうたち」とは何かということまでつっこんで考えなくなるという面があったかと思います。
子どもが読む分にはそれで全然問題ないと思います。楽しくかいじゅうたちと暴れて騒いで、あれは夢だったのかな?という単純なお話ですから。
けれども絵本や児童文学の怖いところは、それがずっと自分の中に残っている場合、単に楽しいだけではなかったということが、往々にしてあるということです。

この辺りが映画ではたいへんわかりやすい解釈でした。
キャロルをはじめとする「かいじゅうたち」は、マックスの心の中の感情を表しています。

原作ではそこまで描かれていませんでしたが、マックスはシングルマザーの母親と、思春期を少し超えた(つまり年の離れた)姉と3人で暮らしていることがわかります。
年齢相応のいたずらっ子ではありますが、とても繊細で傷つきやすいマックスは子どもであるがゆえに、自分の寂しさや孤独を上手に言葉や態度で表現できません。
忙しい母親と姉はマックスを愛していないわけではないのですが、愛情に飢えているマックスは、家族にもそれぞれの人生があってマックスのことだけにすべての時間を捧げるわけにはいかないということが理解できません。
母親がボーイフレンドを連れてきたある晩、マックスは大暴れして母親に噛みついてしまい、家を飛び出します。

大嵐の中たどりついた島には「かいじゅうたち」が住んでいました。
マックスが最初に見たキャロルは大暴れしています。「おれはみんなのためにやってんだ」「誰もわかってくれない」と言いながら何かを次々とぶっ壊しているキャロルは、観客から見て何を壊しているのか、何が「みんなのため」なのかわかりません。
マックスは最初から最後までキャロルと一番親しいですが、それは二人がとてもよく似ているからでしょう。
キャロルはマックスの中の「愛情に飢えた幼児性」が具現化したような存在です。
冷笑的なジュディス、その恋人の温和なアイラ、気弱でひがみっぽいアレキサンダー、包容力があってキャロルとうまくいかなくなっているらしいKWなど、みなマックスの心の中にいる感情や、母親・姉に(マックスが一方的に)求める理想の姿などが「かいじゅうたち」となって現れています。

ただ彼らは「かいじゅうたち(the Wild Things)」なので、マックスにはコントロールすることができません。
マックスとうまくいっていたかに見えたキャロルは「おまえがおれたちの面倒をみないから!食ってやる!」と大暴れしますが、これは家を飛び出る前にマックスが母親にやったこと(言ったこと)と重なります。
また、キャロルに追われてその「口の中」に隠してくれたKWに、「ここは息苦しいよ。出して」と言うシーンも象徴的ですよね。
KWはかいじゅうたちの中では少し大人で包容力がありますが、マックスの理想の母親像でもあるのでしょう。けれどもその包容力や愛は、ときには自分を飲み込んでしまうような息苦しいものでもあるということを、マックスは身をもって理解した、というシーンではないでしょうか。

「太陽がいつか死んでしまう」と学校で教わって、それをキャロルに話すシーンも印象的でした。マックスは教室でそれを教わったとき、驚愕とも恐怖ともつかない表情で先生の話を食い入るように聞いています。太陽は言うまでもなく、「母親の愛情」のメタファでしょう。永遠だと信じていたものがいつか死んで(消えて)しまうことを思い知る、というのは誰もが通る大人の階段ですよね。

原作のとおり、マックスは「行って帰って」くるだけです。
けれども、行きは大嵐の中をびしょ濡れになりながら「島」にたどりついたマックスは、帰りは快晴の中を順風満帆で帰ってきます。
この「海を渡る」というのも象徴的ですが、「海」もマックスの心象風景であることに変わりないでしょう。

マックスは物語の最初と最後で特に成長したということもなく、おそらく今後も表面的には以前とそんなに変わらない生活が続くのでしょう。
それでも、暴れるキャロルを見て「暴れたいわけじゃないと思うよ。怖いんだ」と、キャロルに寄り添ってものを考えることができるようになったマックスは、自分の中にある、ときどき手のつけられなくなるような「愛してほしい」という衝動と折り合いをつけられるようになってゆくだろうということがわかります。
あるいは、自分の中に「ただ愛してほしいだけだ」という衝動があるということは、きっと理解できるようになるでしょう。
そして母親の愛情は絶対でないこと、ときには自分を飲み込んでしまうような恐ろしい面もあるのだということを知って、少しずつ親から自立していくのだろうと思います。

それにしても「かいじゅうたち」のもふもふ具合といったら、わたしも重なって寝たいよ!
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by n_umigame | 2012-05-02 00:03 | 映画・海外ドラマ | Trackback | Comments(0)
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