『トータル・リコール』フィリップ・K・ディック著/大森望編(ハヤカワ文庫SF)早川書房

夜ごと火星に行く夢を見ていたクウェールは、念願の火星旅行を実現しようと、リコール社を訪れるが……。現実と非現実の境界を描いた映画化原作「トータル・リコール」、犯罪予知が可能になった未来を描いたサスペンス「マイノリティ・リポート」(スピルバーグ映画化原作)をはじめ、1953年発表の本邦初訳作「ミスター・スペースシップ」に、「非(ナル)O」「フード・メーカー」の短篇集初収録作ほか、全10篇を収録した傑作選

[収録作品]
「トータル・リコール」
「出口はどこかへの入口」
「地球防衛軍」
「訪問者」
「世界をわが手に」
「ミスター・スペースシップ」
「非(ナル)O」
「フード・メーカー」
「吊されたよそ者」
「マイノリティ・リポート」
(出版社HP)



SFが読みたくなって久しぶりにP・K・ディックを読みました。
…と申しましても、実はわたくし、10代の頃に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Andoroids Dream of Electric Sheep?)』を読んで以来、P・K・ディックが苦手だったのでございます。映画化されることが多い作家であり、これまでも折りにつけ短編をちらほらと読んでいるはずなのですが、何となくざらっとしたものが舌に残ったという「印象」以外にほとんど記憶に残っていません。
ハヤカワSF文庫の新しいバージョンのダスト・ジャケットイラストがかっこいいvと思っていましたが、よく見るとこの『トータル・リコール』は脳みそだし、『電気羊』にしてもかわいい羊さんのはずが、どう見ても悪魔信仰のトーテムの頭の部分にしか見えませんよ。

P・K・ディックはSFというジャンルファンのみならず、広範なファンを持つ作家だそうです。
ですが、アイデアであっと言わせるとか、文章が翻訳を通しても美しいことがわかるとか、詩情あふれる世界であるとか、ストーリーテリングが抜群にうまいとか、登場人物が一度会うと忘れない魅力があるとか、そういったエンタテインメント性の面で突出して優れているというわけではない…と思うのです。
では、これほど読み継がれている理由はなにかを自分なりに考えてみました。

この短編集は全編これディストピアもので、なんとなくハッピーエンドかな?みたいな作品もあるものの、こんな世界に住みたくない、そんな作品ばかりです。

それから、すでに多く指摘されていることのようですが、全編パラノイアの妄想かというような世界でもありました。
SFとパラノイアは相性がいいようで(笑)、フレドリック・ブラウンの作品にもよく出てきますし、リチャード・マシスンも自他とも認めるパラノイアで、「ミスター・パラノイア」と自称してしまっているそうです。
ですが、ブラウンやマシスンの作品は「狂ってるよ(笑)」という感じで、最後はどことなくユーモアが残るというか、ブラックでも笑える展開になることが多い。それはおそらくブラウンやマシスンは、自分を(あるいは自分の作品を)客観視できていて、「俺っておかしいよな」という自覚がある。客観性のないところから笑いは発生しないからです。

翻って、ディックの作品は笑えません。
物語では、どの主人公(=ディックのある種の分身)も、主人公だけが異質で、自分がいる世界になじめないと思っている。あるいは自分以外の全員がどこかおかしいと思っている。そして時には「仲間」や「理解者」が現れることもあるし「非(ナル)O」「訪問者」)、時には抹殺されることもある(「吊されたよそ者」)。
それが強迫観念のように作品に昇華されている。この悪夢のような世界は、SFというエンタテインメントの仮想世界というだけではなく、きっとディックにとっては紛れもない「現実」なのでしょう。そのディックにとっての「現実世界」は常に閉じています。外に出て行くことができない。
「閉鎖された世界から外に出て行くことができる」ことを「救い」と言い換えることができるならば、また「出て行くことができる可能性」を「希望」と言い換えることが出来るならば、ディックの世界には「救い」も「希望」もない。
あるいは、あっても、本当にその先にあるのが「救い」や「希望」につながるのか疑問が残る。
だから読んでいる方は怖いし、後味が何とも言えない。他者の狂気の世界を垣間見たような気がするから。

「非(ナル)O」のラストでは、これはきっと笑うところなんだろうと思ったものの、さっぱり笑えないのは、この狂気の世界に果てがないことがわかるからでしょう。文字通り「外に出て行く」のですが、彼らを待っているのはやはり「狂気によって閉じた世界」でしかない。だって「彼ら」は「彼ら」のままだから。タマネギのように、むいてもむいてもそこにあるのはタマネギです。

そんなわけで、10代の自分が「なんとなく苦手だな」と感じたのは、怖いからだったのかもしれないと思い直しました。
ディックの怖さは、シャーリイ・ジャクスンの作品を読んだときに感じる怖さに少し通じるものがあるかもしれません。
「この狂気は他人事ではない」という恐怖です。
このディストピアは来るかもしれない。あるいはすでに在るかもしれない。
ディックが映画化され、新装版でよみがえるというのは、人が閉塞感を感じる時代であるということなのかもしれません。
「わたしたちは≪ここ≫から出て行くことができるのか?」
「≪ここ≫は己の狂気が見せている幻想の世界ではないと言い切れるのか?」と。


映画版の『トータル・リコール(2012)』ですが、ケイト・ベッキンセールとビル・ナイが出ているので見に行こうと思います。
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by n_umigame | 2012-08-07 20:44 | | Trackback | Comments(0)

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