*さいはての西*

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『メリダとおそろしの森』(2012)

スコットランドのある王国で弓と乗馬が得意な王女メリダは、王国の深い森をこよなく愛し、森とともに育ってきた。しかし、メリダは古代より精霊たちに守られてきたこの神秘の森が持つ本当の力、そしてその森の奥深くで待つ自分自身の運命を知るよしもなかった。
(ぴあ@映画生活)



時代設定、テーマ、ケルティック・アレンジの音楽と、自分の好きなもの、興味を引くものばかりの映画だったのですが、退屈でした…。特に前半。
ピクサーとしたことが、なぜこんなに薄い物語になってしまったのでしょうか。

さっぱり役に立たない、母子関係から疎外されている父親といい、「たぶんこれがやりたかったのかなあ」ということはうっすら見えるのですが。

ここのところDWA作品を何度も何度も見ていて、「情熱を傾けて作り込んだシーンばかりだけど、血の涙を流しながらカットしました」というのが伝わってくる作品が多く、「語られなかった物語の厚み」を感じる90分になっているのとつい比べてしまいました。(オタクはその“語られなかった物語”の部分をつい想像し始めて止まらなくなるので、映画を見終わったあともずーっと楽しめます。ありがとうDWA。)

テーマの主軸は「母と娘」ですが、ディズニーの『塔の上のラプンツェル』の方がこのテーマとして考えさせられる部分の多い佳作に仕上がっていたと思います。

『~ラプンツェル』は義理の母と娘でしたが、『メリダ~』は実の母親と娘です。
『~ラプンツェル』を見たときはディズニーの映画でこんなに深い物語の作品が登場したことに驚いた覚えがあります。
ご存じのように、ディズニー版は原作の(と言って良いのか…)ラプンツェルとはかなり違うお話になっています。『人魚姫』のラストシーン変えちゃった、とかいう程度ではなく、主題そのものが変わっています。

『メリダ~』は、この母と子の対決/対峙を「実の」母親と娘で見せるお話なのかと思っていたのですが、違いましたね。


最近、母親が重い、大人になって自分が母親になってからもその呪いが解けない、ひどい人はそれで病気になって、あんなにいやだった母親と同じことを自分の娘にしてしまう、という本がたくさん出版されています。
わたくしも自分が娘の立場として共感できる部分があるので読むのですが、そういう本を読んでいて感じることは、まず母親に問題があることが多いのですね。当然ですが、これは単純に物理的な順番です。
『ラプンツェル』はそれが端的に表れていました。
ものごとの順番として、問題はあの義理の母親にありました。ディズニーの作品なので実の母親は特に個性のない、「きれいで優しい」女性以上の描写にはなっていませんでしたが、あれは義理の母親と実の母親が一人のキャラクターの裏表だと考えるとたいへん深いなと思いました。

それで「お母さんが悪い」と言っているだけでは問題は何も解決しないわけですが、『メリダ』はこの「お母さんが悪い」と言っているだけのところから始まる物語でした。
なのですが、メリダがそれで何か深刻な問題を抱えているようには見えず、「友達親子」のスタイルから一歩も出ないスタンスでしか語られないので、見ている方はメリダが単なるわがまま娘にしか見えない。

メリダは自分は悪くないと思っているので、相手(母親)が変わることを要求しているのですが、他人を変えることは無理です。

親子は(…というより人間関係はすべからく)お互いに他人(独立した個)であるという了解が欠けていると、双方しんどいことになるのですが、特に問題のある親が子どもの期待するように「変わる」なんてことはあり得ない。
変えることができるとしたら、自分だけです。
それは「母親に変わって欲しい」という“呪い”をかけたメリダが、そのしっぺ返しとしてえらい目に遭う、というところと、けれども「自分は変わることができる」というメッセージは感じることはできました。(「あなたも変わったのね、メリダ」というような(うろ覚え)エリノアのセリフがあります。)

ただ、「だから?」という部分が欠落しているのですね。
物語が始まった時点と終わった時点で、この母子は何にも変わっていません。

この「物語ることの失敗」の原因は、語り手、制作者側に、メリダなり母親(エリノア)なりの心情に寄り添える人がいなかったんじゃないかなと思いました。
娘として、あるいは母親として、母子の葛藤を経験したことがないか、忘れてしまったか、あるいは症状が深刻すぎて自覚がされていないか、そのいずれかなのではないかと。

そうでなければ、制作者はおそらく聡明な人なのではないでしょうか。
エンタテインメントの皮をかぶっても、あらゆる創造物は作り手のあれやこれがだだ漏れになります。自分が意識していなかったものすら、表出してしまうものなのだと思います。
作家性が薄いアメリカのアニメを見ていても、やはり特徴があるということがDWA作品を見るようになって改めてわかりました。
それが漏れ出さないように理性で鍵をかけてしまったようにも見えます。

ただ、観客はそんなお行儀の良いものが見たいわけではないのです。
明らかに何かが壊れていて、ヤバいものがあれこれ漏れていてもかまいません。
観客に対して、つまり世界に対して気持ちが開いていることが大事。
おそらくそれがあらゆる創造物の存在意義であり、だからこそ人は「作り物」に過ぎない創造物に一片の真実を見、愛してやまないのではないかと思います。
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by n_umigame | 2013-01-20 18:14 | 映画・海外ドラマ | Trackback | Comments(0)
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