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『語りべのドイツ児童文学 : O・プロイスラーを読む』吉田孝夫著(奈良女子大学文学部まほろば叢書)

出版者:かもがわ出版

~目次~
1 ホッツェンプロッツをドイツ語で
2 妖怪の故郷を語る
3 ハリー・ポッターと核戦争のあいだで
4 「ぼくはクラバート」―民話と名のり
5 辺境・賤民・ソルブの伝説―『クラバート』の背景
6 ゲームとしての人生
7 語りべとして―おわりに



※O・プロイスラー著『クラバート』の結末に触れています。


帯によると「『大どろぼうホッツェンプロッツ』『クラバート』で知られるプロイスラー「民話の語りべ」名手としての魅力を、作品から探る。」となっています。

プロイスラーの研究書というのがめずらしいということもあって期待して読み始めたのですが、第1章を読み終わらないまに「こりゃあ、本の選び方を間違えたかな」と思いまして、その印象は最後まで読んでも変わりませんでした。

叢書名からわかれよ、ということだったのかもしれませんが、まず「大学の先生の講義」でした。
学生を主な仮想読者としているためか、視線が「教壇の上から」なんですよ。それもギャグが寒かったりして(ドイツ語って楽しい!の下りとか…)「こんな先生、自分の母校にもいたわ(苦笑)」という感じの。まずそれにもやもや。

次にもやもやしたのが、期待したものとの乖離です。
わたくしのプロイスラー作品との出会いは、著者の方とは逆に、子どもの頃家にあった『小さい魔女』『大どろぼうホッツェンプロッツ』ですが、いちばん好きな作品は大人になってから読んだ『クラバート』です。
この作品ははスラブ系少数民族ソルブ人の間に伝わる「クラバート伝説」が元にされており、本作中も言及されるように、クラバートを救いに来るのが母親から恋人の少女に変わっていたりするのですが、残念ながらドイツ語やスラブ系の言語の素養がないわたくしは「クラバート伝説」の一次資料に当たることができません。(カレル・チャペックのファンでもあるので始めてみたチェコ語は1ヶ月で挫折しました(笑)。愛が足りませんね。)
ですので、「クラバート伝説」の一次資料に当たり、紹介しながら、それがいかにプロイスラーの作品として昇華されていったのか、というものが読めるのかと思っていたのですが、そうではなかったのでした。

それから、第5章の「辺境・賤民・ソルブの伝説―『クラバート』の背景」…ここが本来自分が期待した内容でもあるのですが…のような部分が、あまりにもさらっと流されてしまうことに対する違和感です。
「賤民」というような言葉を使って述べるのであれば、もう少し腰を据えて語られるべきではなかったかと思います。
語弊のないように申し添えると、この言葉が差別的だから問題であるというような<言葉狩り>的な意味で申し上げているのではありません。中世ヨーロッパの伝承が背景にありますし、ドイツと周辺のスラブ系の民族、国々との歴史背景というものがあります。
それらを事実として押さえつつ、『クラバート』という文学作品を検証する上で重要なファクターだ、というご判断なくして、この章は書かれなかったと思います。
その割りには踏み込まれていない、逃げられたような気持ちになるというのが率直な感想です。

これはこの第5章だけでなく、第3章「ハリー・ポッターと核戦争のあいだで」や第6章「ゲームとしての人生」など、章タイトルはキャッチーでやや扇情的な印象すら受けるのですが、残念ながらどの章も章タイトルだけが浮いている感じです。

第4章の「「ぼくはクラバート」―民話と名のり」の部分も、そういう意味では、非常に意地悪な言い方をしてしまうと、ミステリー小説のアナグラム(綴り変え)のようで、言葉遊び以上の説得力がないように思いました。実はこの章がいちばん「逃げ」がないと申しますか(笑)、著者の自説が出ていると思うのですが、「なるほどな」と腹に落ちない。
おそらくその理由は、やはり著者の方が本気で向き合ってくださっているような気合いというか気迫を、ほかの章から感じないからでしょう。
多少飛躍や無茶があっても、本当にこの物語が好きで好きでたまらないから、結果こうなっちゃったんだな~ということが伝わってくると、読んでいる方も意地悪を言いにくいものなのです(笑)。

もう一つの決定的な(?)「もやもや」感は、これは解釈の問題なのですが、プロイスラー自身による『クラバート』の結末についての解釈を、何度も否定されているところです。
プロイスラーは少女(カントルカ)の愛がクラバートを救ったと解説しているが、それがおかしいんじゃないかと。
著者の方は、男女間の愛などという卑小なものではない、とおっしゃりたいのでしょうが、逆にわたくしは、なぜそれを一義的に「男女間の愛」の意味しかないと決めつけてプロイスラーが間違っていると言えるのかが不思議でした。

「愛」という言葉は非常に意味の広い言葉です。形而下的なものから形而上的なものまで、多様な価値観をも含む言葉だと思います。とてつもなく安っぽく響くこともあれば、崇高な側面を持つこともあるということです。
また、プロイスラーさんはドイツ語で「愛」とおっしゃったのでしょうから、訳せば「愛」という単語でも、言語が変われば包括されるニュアンスや概念が変わってくるはずです。(例えば手元の英和辞典を引くとloveの第一義はいわゆる恋愛という意味の「愛」ではありません。)
なので自分は「これは愛が主人公の少年を救う物語だ」とプロイスラーさんがおっしゃっていても(「それだけじゃないでしょう、プロイスラーさんたら☆」とは思いつつ(笑))違和感はありませんでした。
クラバートを守り、支えてきた「愛」は、カントルカの愛も含め、いわゆる恋愛感情の愛だけではないと思うからです。
百歩譲ってそれが男女間の愛だったとしても、異性に対する「愛」が恋愛感情の愛しかない、と決めつけること自体が、卑小な解釈だと思うのですが、いかがでしょうか。

大学の研究叢書ではあるものの非常に軽めで、本文は156pしかありません。最初から語れる内容は限られていると思うのですが、であるなら、もう少しアプローチの仕方、テーマの切り取り方を変えてみた方が、1冊の著書として座りが良く、読んでいる方もこんなもやもやした気持ちにならなくてもすんだかもしれないと思いました。

もとより特殊な叢書の中の一冊ということで、想定外の読者からそんなこと言われてもな…と思われる向きもあろうかと思いますが、日本にも『クラバート』やプロイスラーのファンは大勢います。
一ファンとしてフラストレーションを感じた人間もいる、という程度にご理解いただければと思います。
by n_umigame | 2013-02-22 21:33 | Krabat/クラバート