『映画は父を殺すためにある:通過儀礼という見方』島田裕巳著(ちくま文庫)筑摩書房


映画には見方がある。“通過儀礼”という宗教学の概念で映画を分析することで、隠されたメッセージを読み取ることができる。日本とアメリカの青春映画の比較、宮崎映画の批判、アメリカ映画が繰り返し描く父と息子との関係、黒沢映画と小津映画の新しい見方、寅さんと漱石の意外な共通点を明らかにする。映画は、人生の意味を解釈する枠組みを示してくれる。
この本の目次
予告編
1 『ローマの休日』が教えてくれる映画の見方
2 同じ鉄橋は二度渡れない―『スタンド・バイ・ミー』と『櫻の園』
3 『魔女の宅急便』のジジはなぜことばを失ったままなのか?
4 アメリカ映画は父殺しを描く
5 黒澤映画と小津映画のもう一つの見方
6 寅さんが教えてくれる日本的通過儀礼
7 総集編
出版社HP




以下の映画のネタバレがありますので、もぐります。
『スター・ウォーズ』
『フィールド・オブ・ドリームス』
『塔の上のラプンツェル』
『メリダとおそろしの森』
『ヒックとドラゴン2』
『ペンギンズ FROM マダガスカル ザ・ムービー』
「マダガスカル」三部作
『カンフー・パンダ』
『カンフー・パンダ2』















著書中では「アメリカ映画」と呼ばれていますが、いわゆるハリウッド映画を見ていて、以前からずっと不思議に思っていたことがあります。
自分は映画マニアというわけでは全然ないので、偏っているし見ている本数もとても限られているにしても多いなと。

それは、ハリウッド映画には、なぜこんなに≪父殺し≫や父子の相克を描いた作品が多いのかということです。

この問いが出るときによく引かれる例が『スター・ウォーズ』(特に4-6)です。この作品はジョージ・ルーカス監督自身の経験が作品に反映されていると言われています。厳格な父親を乗り越える(=メタファとしての父殺し)ために、イニシエーションとして必要な作品だったからだと。

あらゆる創作物はその作り手の排泄物だとはよく言われます。
本人が意識していないこと、あるいは意識レベルでは隠しておきたかったことまで、創作物が暴露してしまうということが起こりえるのが、創作の怖いところであり、面白いところだと思います。
その、のっぴきならない、自分の中で抑えておけない衝動のようなものを、ある人は映画で、ある人は絵で、小説で、音楽で、マンガで表現するのでしょうが、映画は小説や日本の漫画とは違って一個人だけで製作できるものではなく、特にハリウッド映画のようなビッグバジェットの作品は、とても大勢の人が関わって完成するものです。(エンディング・クレジットの長さがそれを物語っています)
それなのに、なぜ、繰り返し同じモチーフの作品が出てくるのかが、ずっと不思議でした。

この本では、その答えとして、一つにはユダヤ・キリスト教の影響を上げられています。
二つ目は、
「どういったかたちをとるにしても、アメリカ映画は、家族の絆が強化される方向に物語が発展していくことになる」
「そういった映画がアメリカで求められているということは、逆にいえば、アメリカの家庭や家族がいかにもろいものであるかを示している。」(p.155)
とされています。

一つ目の答えについては、アメリカはピューリタンが建国した国であり、ハリウッドにはユダヤ系の人が非常に多いので、確かにその影響は無視できないだろうということは理解できます。
ただ、二つ目は、だったらなぜ「父と子」なのか? というという問いには答えきれていないのではないでしょうか。ここで言われる「子」とはすなわち「息子」のことです。「家族」とは男性の構成員しかいない集団を指すことばではなく、だったら「母と子」でもいいはずです。ですが、父と子の相克のドラマにおいて、ほとんどのハリウッド映画では、母親がいないか、いてもお人形さんのように(きれいで優しげだけれども)個性が乏しく目立たないか、どちらかであることが多いように思います。

以下、端的にデフォルメ/戯画化された世界でわかりやすいので、アニメ映画で例にとります。

『塔の上のラプンツェル』では、お互いに依存している一卵性母子が描かれていました。生みの母親はご多分に漏れずお人形みたいで印象の薄いキャラクターですので、おとぎ話に出てくる‘記号としての母親’役なのだと思います。ですので、実体としての≪母≫はゴーデルの方です。
この母子を見たとき、ディズニーでもこんなにデリケートで現代的なテーマで作品を作るようになったのかと、感慨深かった覚えがあります。
何もかも飲み込み、娘の自立と本当の幸福の実現を阻む≪グレートマザー≫を乗り越える物語として、『塔の上のラプンツェル』は成功していました。母親が重たくて自分が死にそうな思いを抱えている女性の中には、この映画を観て救われるような気持ちになった人も多いのではないかと思います。
逆に失敗していたのは『メリダとおそろしの森』です。
メリダはピクサー初めての女性主人公だと騒がれていたのを覚えていますが、器だけ女だったら女性キャラクターたりえるかというと、そんなことはありません。"男勝り"の女の子を描くにしても、「今どき?」と思うような描かれ方でした。女性が自立するということは、男とまったく同じことができるということと、イコールではないのです。弓矢を取り馬で駆け抜けるメリダは、古くさいフェミニズムをかじった男性の頭の中から出てきた女性キャラのように見えました。
メリダは母親をクマに変えてしまい、それを後悔して最後は母親と和解するというプロットですが、メリダが成長して母親からの本当の自立を果たしたかというと、そんな風にはまったく見えませんでした。ちょっと長い母子げんかをして、お母さんごめんね、わたしが悪い子だったわ、という程度で、実際(彼女はお姫様だったからだとしても)、結局は親元を離れず、母親にべったり依存している状態のまま物語は終わってしまいます。母親の方も娘から自立したようには見えませんでした。
ゴーデルは、メリダの母親と比べても格が違います。
ゴーデルの、家族にしかわからない本当にやっかいな≪母≫っぷりは、ディズニーのこれまでの蓄積あってのキャラクターだなと思いました。マレフィセントや、何だか女性っぽいフロロー判事などの影を感じます。ものすごくいやなリアリティがあるのですね。
(わたしは、なので、ひと頃のディズニー映画がとても怖かったです)

最初から断絶している、目の前の壁である<父>を倒すより、一見、愛のように見えるもので飲み込んで一体化しようとしてくる<母>を断ち切って乗り越える方が、テーマとして難しいと思います。
≪父殺し≫は、映画=動く絵面として見せてわかりやすいから、安易に採用されがちだということもあるのだろうと思います。

ディズニーがこうして変わろうとしている一方で、ちょっとした退化だなと感じたのが、ドリームワークス・アニメーションの『ヒックとドラゴン2』です。
最近『ペンギンズ FROM マダガスカル ザ・ムービー』(以下、映画ペンギンズ)を見て、改めて感じたのは、マダガスカルシリーズの≪父≫の不在と、敵を殺さないという一貫性でした。
一方で、『ヒックとドラゴン2』では、たいへん即物的な≪父殺し≫をやってしまいました。正直、え、ドリームワークス・アニメーションで? と思ったほどです。
映画ペンギンズと『ヒックとドラゴン2』は、同じ年(2014年)に公開された作品です。


『フィールド・オブ・ドリームス』も『スター・ウォーズ』のように、父と子の和解の物語だと、この著書で述べられています。
「父殺しがあったからからこそ、和解が必要とされたのだ」(p.125)
と。(余談ですが、『フィールド~』では、主人公が野球場を作るというのが象徴的だなと思いました。素人考えですが、箱庭療法を連想させます。)
そうであるならば、『ヒックとドラゴン2』で、≪父≫を殺す必要があったのかどうか疑問です。というのは、1作目の『ヒックとドラゴン』で、この父子はすでに和解まで行っているからです。
『ヒックとドラゴン』も母親が不在です。「2」で登場しますが、母親的な存在として、すでにゲップがいました。
ゲップはストイックの長年の戦友であり親友ですが、頑固なストイックを時に諫め時に励まし、ヒックの成長をもフォローしてきたであろうゲップこそ、実体としての≪母≫であり女房役でもあったろうと思います。「2」ではゲップがゲイであることがほのめかされるので、この軽々とジェンダーを乗り越えてくるDWAの小気味よさに惚れ直しただけに、なおさらストイックを殺してしまったことが不思議でした。ゲップがいるのに実の母親ヴァルカが出てくることも、物語的に本当に必要だったのかどうか、「2」を見ている範囲だけではやはり理解できませんでした。

思うに、ハリウッドの物語作法としての≪父殺し≫を、セオリーどおりに脚本に持ってきてしまったために、本当にこの作品に欠くことができない、これしかないんだ、という説得力に欠ける展開になってしまったのが『ヒックとドラゴン2』なのではないかと思いました。(ジョゼフ・キャンベルの著書がハリウッドでの物語作りでの参考書になっているそうなのですが、神話は典型を生みやすいものです。だから似たような話が次々と出てくるのでしょう。)
作り手に切迫性がなく、話を盛り上げる手段としてだけ≪父殺し≫を使うと、安手になってしまいます。
また、『ヒックとドラゴン2』はディーン・デュボア監督の単独監督作品ですが、デュボア監督がディズニーから来られた方であることも、理由のひとつなのかもしれません。

ドリームワークス・アニメーションの売れ筋フランチャイズ御三家は、現在「ヒックとドラゴン」「カンフー・パンダ」「マダガスカル」の各シリーズですが、共通しているのは、主人公(=「子」ポジションのキャラクター)は成長しないということです。特に後者2シリーズに顕著です。
「子」ポジションのキャラクター(ヒック、ポー、新人)は、すでに満ち足りているか安定していて、むしろ、その「父」ポジションにいるキャラクター(ストイック、シーフー老師、隊長)の方が、無知(=偏見がある)だったり、未熟者であったり、迷いに揺れていたりして、最後に気づきを得るキャラクターだったりします。(ヒックは物理的には「2」で大きくなっていますが、一作目の時点ですでに、ドラゴンへの偏見が誰よりも少なく、聡明で公平な見方ができるキャラクターとして描かれていました。内面は成熟している、大人だったということです)
ドリームワークス・アニメーションはディズニーのアンチテーゼとして設立された会社で、芸風として天の邪鬼なのは仕様というか社是だろうと思いますが、ハリウッドの典型やセオリーを破る物語を語る、大げさに言えば新しい神話体系を作ろうとしているように、わたしには見えました。そこがDWAの魅力の一つなのだと。
そこへ『ヒックとドラゴン2』で≪父殺し≫をやってしまったので、やはりびっくりしました。

この本は≪父殺し≫についてがメインテーマではあるものの、「なぜこんなにハリウッド映画では≪父殺し≫のモチーフが繰り返されるのか」という問いの答えは書かれていませんでした。

巻末の町山智浩さんの解説には、上述したユダヤ・キリスト教の影響に加え、アメリカがイギリスからの独立=反抗という形で建国した国であるためだという説も上げられています。
それもあるのかもしれません。
ですがやはりすっきりしないですね。
ハリウッドでの女性の地位が低いということが、いまだ取りざたされているようですので、男性原理が非常に強いままだということも、おそらく無視できない要因かもしれません。ぜひアメリカの女性の意見も聞いてみたい気がします。


『スター・ウォーズ』がジョージ・ルーカス監督の非常に個人的な浄化作用のための創作だったのだとしたら、『ヒックとドラゴン2』もデュボア監督の非常に個人的なものが投影されている可能性はあります。
DWAの最近の作品の中では特に、≪父殺し≫を採用したのがなぜ『ヒックとドラゴン2』だけなのか(今後はわかりません)ということも、改めて考えたいと思います。きっと答えは出ないと思いますが、考えるのは楽しいので。





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by n_umigame | 2016-01-05 23:33 | | Trackback | Comments(0)

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