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『幼年期の終わり』(CHILDHOOD'S END)原作とドラマ


戦争や疫病が消え、平和がもたらされた地球。しかし、その代償とは?
アーサー・C・クラーク原作のSF史に輝く不朽の名作の初の映像化!
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(AXN・画像も)


やっとドラマを見終わりました。
原作も懐かしくなってうん十年ぶりに再読したのですが、この傑作についての詳しい感想や考察はほかにすばらしい記事がたくさんありますので、そちらをごらんください。
こちらでは簡単に、原作とドラマの違いについて感じたことを記しておきたいと思います。


以下ネタバレしています。


***


初めて原作を読んだときの自分の年齢が確か14歳か15歳だったので、なおさらそう感じたのかも知れませんが、すばらしいハッピーエンドの小説だと思ったことを覚えています。

ところが、ドラマ版を見てみたら、何ですかこの鬱々とした展開は(笑)。あの14だか15だかのときに自分が感じた多幸感はニセモノだったのか。
そうではなかったのです。
そして、なぜこんな鬱展開になったのか、わかるようになった自分がおりました。

それは、どちらの立場でこの物語を見るか、という点にかかっているということだったのですね。
つまり、取り残され、次に進むことは叶わず、地球とともに滅亡していくしかない旧人類、子どもたちの世界へは決して共に行くことができない旧人類なのか。
あるいは、宇宙に存在する何か超越的な存在に見いだされ、進化し、生命にとっては限りなく無限に近い宇宙へ飛び出して行くことが許された新人類なのか。

初読時のわたくしは純粋に新人類に共感し、現在の自分は旧人類の気持ちもわかるようになったということです。

しかも、これは、原作だからハッピーエンドで、ドラマだから鬱展開だというような単純な話ではないのが面白いところです。
原作を読んでも「鬱々とする」という感想を寄せておられる方もいらっしゃるので、原作も旧人類に共感して読むと、そうなってしまうのですね。
原作は1953年(英での刊行)の作品で、原作者のアーサー・C・クラークが36歳のとき。30代前半はもう子どもとは言えないものの、やはり比較的若いときに書かれた作品ではありますが、あくまでも、原作をどう解釈するかということろにかかっているのです。

***

初読時、すばらしい多幸感とともに読み終わったのも当然だったのだなあと、今回再読して改めて思いました。
「(旧)人類があれほど憧れ、謎を解明したいと望みながらもついに見ることのかなわない世界を見ることができる新しい人類が誕生する」物語なのですから。
このまま行けば、間違いなく地球と共に滅亡する(地球にも寿命がありますから)人類にも、新しい世界が開かれている。それはわたしたちが物理的に宇宙船に乗ってどこかへ行くのではなく(それでは結局今の人類が宇宙へ行っても同じようなことを繰り返すだけなのが目に見えています)、まったく新しい人類として宇宙へ飛び出して行く。そこではもう、今の人類が果てしなく繰り返しているような愚かなことはされないだろう。進化しているのだから。これがハッピーエンドでなくなんだというのでしょうか。

原作でも、エネルギーがすべて吸い取られ崩壊していく地球に一人残る青年ジャン(ドラマではマイロ)がいますが、ジャンは、こう言っています。

ある感動が大波のようにぼくを襲うのを感じました。それは喜びでも悲しみでもない、何かが満たされた感じ、何かが全うされたという感じです。
(ハヤカワ文庫2015年6月38刷・福島正実訳 p.394)

この最後の人類となったジャンの、崇高な、それでいて背負うことのない素直な誇り。個としての自分、人類という種は滅んでいくけれど、個としての人間としても自分は生ききったという達成感、しかも、人類の最期をその自分が見届けることができたという達成感は、やはり悲しさより喜びの方が大きいと感じます。(そうあってほしいという自分の気持ちの投影なのかもしれませんが)
このジャンの達成感は、自分の血を分けた子が生き延びるために選ばれたとか、そんな小さな個人の話ではありません。本当に、人類という種を、自分の人生が終わるそのときに、我が身に引き受けているのです。
「自分(=旧人類)の死」を「全う」できたという誇らしさ。個人に置き換えるなら、すばらしい人生を生ききったという喜び。悔いがないからこそ静かに迎えることのできる眠り。それは滅びの美学などという陳腐で安っぽいものではありません。ジャンの気持ちはそこにはないからこそ、この清々しい最期なのだと思います。


ところが、ドラマ版は、これを「人類の新世界への飛躍というすばらしい未来を描いた物語」とは解釈していませんでした。明らかに旧人類に肩入れして描かれています。
視聴者もそう感じるように、印象操作されていると思いました。
原作では国連の代表で、人類との窓口役でしかなかったストルムグレンのドラマがやたらくどくてセンチメンタル(笑)なのも、その一環かと思います。「旧人類」が共感できる「隣のお兄さん」が必要だったからでしょう。
子どもを奪われる親はただただ泣き叫び、最後の人類となったマイロは死ぬ直前まで恋人は死んでしまったのかと未練がましく(もう会えないのは地球を出発した時点でわかっていたはずです)、ずっと泣き出しそうな顔をしています。(マイロの誠実さを出したかったのかもしれませんが、その愁嘆場はもうさんざん出発するときに見たからー!)
ドラマ版は、旧人類には確かにアピールしたでしょう。滅び行く人類にはてしなく"寄り添った"ドラマとして。ただ、そうすることで、どうしても凡百の終末ものSFと大差がないものになってしまっています。

原作の『幼年期の終わり』がこれほど長い間読み継がれているのは、人類の進化や好戦的でない宇宙人がやってきたお話だから、というだけではないと思います。
そこに、「今の人類では(もしかしたら永遠に)行くことのできない宇宙」への希望が、「新しいいのち」に託された作品だからではないでしょうか。
クラシックSFらしいオプティミズムにあふれた作品だとは思います。今回再読してみて、こんなに単純なお話だったのかと正直驚きましたので。
ですが、最後には希望しかないのだということも、認識を新たにさせていただきました。
こんな作品に、多感な年頃に出会っておいて、本当によかったと思っています。






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by n_umigame | 2016-06-19 23:32 | | Trackback | Comments(0)

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