*さいはての西*

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『ユリイカ』8月臨時増刊号・総特集アーシュラ・K・ル=グウィン(中編)

中編です。

・いちジブリファンが映画『ゲド戦記』の試写に行ってきました。 大庭賢哉
 →試写の時の感想をマンガでつづられた一品です。宮崎駿のマンガの絵のような、独特のタッチで描かれていますが、この方の持ち絵柄がこうなのか、ジブリ作品の感想だからこのような画風にしたのかは不明です。

・宮崎吾朗はいったい何を捨てて無垢を拾ったのか 池田雄一
 →『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』みたいなタイトル…いやそんなことはどうでもいい。寡聞にして存じ上げませんが、ヘーゲルを持ち出してこのように語られる所、ご年輩の方なのでしょうか。わたくしは個人的にアニメーションという表現媒体に、そんなに思い入れや愛があるわけではなく、ほとんど見ていません。だからと言うか、なおさらと申しますか、アニメーションに古典主義だのロマン主義だのヘーゲルだのを持ち込まれてもなあ…というのが正直な心境です。上手く言えないのですが、何か、そのステージで論じなければならない問題なのだろうか、という思いがどこかにあるようです。個人的に元々、例えば哲学や現代思想に興味があり、そこからアニメーションを見ても郵便ポストを見ても犬の散歩を見ても、その入り口からしか入ってこない、ほかの回路からは出ていかない、ということはあると思いますが。例えば、河合隼雄さんが『ゲド戦記』をユング心理学の立場から読み解くというように。つまりは手前味噌に語るということですが(笑)。しかし、『ゲド戦記』の3巻や4巻がそうであったように、素材が作者の血肉になっていないまま表現される場合、おおむね作品は成功したとは言えない、ある種の生煮えの状態で読者の前にサーブされてしまうのではないかと思われます。(…と『イノセント』を見たときに思いました。)

・「宮崎的運動」のために 中田健太郎
 →池田雄一さんの論文にも重なる部分がありますが、宮崎駿アニメの「止め絵」と「メタ・フィクション」を禁じた手法が、宮崎吾朗作品にも、辛うじてだが、引き継がれたと見ていいのではないだろうか。ということのようです。

・<世界の果て>で竜と舞う:魔術的現代の苦悩と希望の旅路 清水知子
 →4項から成る論文なのですが、抽象的すぎて絞り込めていない印象でした。「ぷちエディプス・マジック」などという言葉を事前のこととして語られると困ってしまいます。造語は即興でも読者に伝われば解説不要ですが、最初から読んでも論旨が見えてこない上、最後でそのような言葉でくくられても。

・アニメに適さない題材、ファンタジー:あるいは「プリン/ターキッシュ・ディライト」問題 藤津亮太
 →瀬田貞二さんが「ナルニア」の『ライオンと魔女』で、Turkish Delightを、日本の子どもたちになじみのあるプリンと訳されたことを例にとって、観客の「見知らぬもの」で埋め尽くされるハイファンタジーの世界をアニメで構築することは難しい、と書いておられます。前述の河合隼雄さんとは角度が違いますが、「リアリティを画像で獲得することの難しさ」という点で、大いに共感いたします。

・タカノ綾状無意識:SF愛と1.5列目のル=グウィンを語る 斎藤環、タカノ綾
 →『ゲド戦記』が中心の論文の中にあって、ル=グウィンの作品全体を俯瞰(それもタカノ綾さんの無意識の領域から?)した対談。いやーおもしろかったです、タカノ綾さんが!(笑)ものすごく感性が鋭いと申しますか、読んでいるだけでラリっちゃいそうな。圧倒されました。斎藤環さんが話を引き出すのが上手ということもあるかもしれません。精神科医とアーティスト…考えたら対談としてゴールデン・タッグかも。『風の十二方位』を漫画化された作品はぜひ発表されたら拝見したいですね。
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by n_umigame | 2006-09-02 21:58 | *le guin/earthsea* | Trackback | Comments(0)
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