*さいはての西*

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『ユリイカ』8月臨時増刊号・総特集アーシュラ・K・ル=グウィン(後編)

間があきましたが、これで最後です。

・ル=グウィンとポスト・コロニアル時代の文化相対主義 吉岡公美子
 →ル=グウィンさんとお父上アルフレッド・L・クローバー氏との影響関係について述べ、イシ(『イシ 北米最後の野生インディアン』(岩波書店)をご参照下さい)の遺体をめぐる騒動と、ハリウッド製ドラマ『ゲド戦記』についてプロデューサーのリーバーマンの声明に対してル=グウィンさんが出した声明について。ル=グウィンは自作品の映像化についてはむしろ懐疑的ではなく、誤解/誤読はたしかに愉快ではないかもしれないが、その責任=応答可能性の所在が明らかである限り、あくまでも趣味の問題で、その低級な解釈に私は与しない、と表明して肩をすくめればよい。とし、むしろ、
繰り返すが、ル=グウィンは『アースシーの伝説』が原典に忠実ではないことを責めているのではない。肌の色を不問にする「カラー・ブラインド(colorblind)」の悪平等主義的な相対主義では、見かけ上、登場人物の人種的多様性を確保するという政治的正しさ(political correctness)は実現できても、コロニアルな人種的、地政学的関係を問い返す政治性・批判性は持ち得ないこと、むしろ、『アースシーの伝説』の制作者が何のためらいもなく主人公を白人に、ゲドの母語を解さない東の国の娘をオリエンタルなアジア系の女性にしたように、相対主義の名の下に植民地言説を再生産することを問題にしているのだ。
とあります。
おおむね賛成であります。さらに問題なのは、リーバーマンの声明を私も読みましたが、自分ではそんなつもりはいっさいないであろうと想像される、自覚のなさ、つまり無神経さ、こちらの方もかなり、いやむしろそちらの方が問題の根をさらに深くしているのではないかと思われます。
そして押し広げれば、これはリーバーマン個人の問題と言うよりは、一事が万事アメリカの人にはこのような傾向があり、「アメリカってサイコー!」と思ってるだけならいいのですが、それを頼まれもせんのに人さまの国にまで「アメリカってサイコーだろ? な? YESって言いやがれゴラぁ!」と押し売りに来る押しつけがましさが、みんなイヤだって言ってんだよ? ということがいつまでもわからない。ということでしょうか。まあアメリカの人でなくてもこういう人はいますが、武装して空から降ってくるから始末に悪い。「オレってカッコイイだろ?」と断定的に言い出した時点ですでにかっこよくないですよ、もう。

・物語の不/可能性:チャーテン実験の失敗とティプトリーの「ファクト/フィクション」 海老原豊
 →ル=グウィンとジェイムズ・ティプトリー・Jrの比較? でしょうか。ティプトリーは『たったひとつの冴えたやりかた』一つだけ、しかも中学生の時に読んだっきりで記憶の彼方です。とほほ。でもこの小論文を読んで再読したくなりました。

・『ゲド戦記』の魔法とは? 蜂飼耳
 →『ゲド戦記』のあらすじのような小論文でした。読書感想文を書くときに、あらすじで字数を稼いではいけません。と先生に注意されませんでしたか?(笑)ですが、「なにもかもが思い通りになるだけの物語など、誰が読みたいだろう。」という一文には賛成いたします。

・揺るぎなさに至る旅:アーシュラ・K・ル=グウィンの哲学 小澤英実
 →ル=グウィンの作品の「揺るなさ」は、本を読み終わった後現実に向き合う強さを与えてくれる、けれども同時にその「揺るなさ」に対する違和感やわだかまりがなぜか残る。とおっしゃっています。わたしも、『ゲド戦記』で久しぶりにル=グウィンの作品に再会したときは、その世界の精緻な美しさに圧倒されて何も感じませんでしたが、そのあとル=グウィンばかり読みあさっていたころ、だんだんそうおっしゃる「……?」という違和感を感じるようになりました。それはル=グウィンさんが作品を書く時点での「〔今は〕これしかない」のだ、という確固たる決意のようなものを感じるのですが、書かれてから時間があいているので、今読むと「…そうかな?」ということがあるということにも関係があるのかも知れないと思いました。ただ、最後に筆者の方も引用されているように、ル=グウィンさんは自分の構築した愛する世界でも、「今」おかしいと感じれば、もう容赦なく破壊してくれる作家さんでもあります。
内田樹さんが、いつまでも変わらないのはファンに対する愛があるからだ、とサザンオールスターズや山下達郎の音楽を評して書いておられましたが、そういう意味では、ル=グウィンさんは3巻までの『ゲド戦記』ファンに対する愛は(あまり)ないのかもしれません(笑)。事実、4巻なんか『ゲド戦記』と認めねえ!というファンも大勢いるわけですから。しかしそれでもわたくしなどが許してしまうのは、やはり、ル=グウィンさんの書くということに対する真摯な姿勢、内側から突き上げるような、「〔今は〕これしかない」のだ、という気迫を感じるからです。

・海と曠野を渡る声:アーシュラ・K・ル=グウィンの近作をよむ なかにしけふこ
 →『言の葉の樹』と詩人としてのル=グウィンについて。
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by n_umigame | 2006-09-16 23:17 | *le guin/earthsea* | Trackback | Comments(0)
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