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*さいはての西*

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『風と木の詩』(全8巻) 竹宮恵子著(中公コミックス文庫)中央公論新社

初めて読みました、竹宮恵子さんの往年の名作と名高いこの作品。

ことの起こりはある日の仕事帰り、同僚と古いマンガで読んだことがない作品の話になり、1970年代以前のマンガって意外とすれすれ読んでないよねーという話から、『風と木の詩』もそういえばないやー古典はやっぱり読んでおかなくちゃね? と言ったら、

「けどさー、にせみ(仮)さん、そーゆー話、苦手やん。大丈夫か?」
……お好み焼き屋でイカ玉をニコニコつついている時にいきなり核心を突いてくるな、同僚よ。

そんなわけで挑まれると(?)後には引けず(?)読んでみました。
いやー、こんなお話だったんですかそうですか。

確かにほんとうにこんなに必要なのか理解に苦しむほど多いですね、直截なラブシーン…いや愛情はほぼなさそうだから単なるそういうシーン。ですが、竹宮さんの描く人体はにおいや重量がないためか、読んでいてドキドキしないと言いますか、セクシーさは感じられずほとんど記号のようにしか感じませんでした。

音楽の才能のある生真面目で誠実な少年が、全寮制の男子校に転入してくる、という設定は『オルフェウスの窓』に似ています。それ以外にも、現在と過去へ章立てされて物語が別々に語られる部分や、プロットが破綻したかのようにいきなり重要人物の死で終わるクライマックスや、ほとんどの登場人物が不幸になる展開など共通点があるように思います。

違うのは、いかにも心理学者に好まれそうな題材、虐待(性的・精神的)の世代を越えた連鎖、共依存、社会不適応に苦しむ(あまり自覚はないけど)アダルト・チルドレンなどが主要人物として出てくるところでしょうか。
故・河合隼雄さんが『あなたが子どもだったころ』(講談社+α文庫)でこの作品を評して、登校拒否など社会に適応できず、どうしても自分をわかってもらえないと感じている子どもなどは、この作品によって救われた、癒されたと思っているのではないだろうか、と書いておられました。
わたくし自身は登校拒否の子どもに向き合ったこともないし心理学者でもないので、そうなのかなあとしか思えませんが、ジルベールの孤独は、そういう子どもたちに通じる部分があるのかもしれません。

ジルベールは自分がこうなったのは親(オーギュスト)のせいだから土下座して謝れと言い出したり、バットを持って殴りかかったりはしませんが、常に、オーギュストのゆがんだ愛情(なのかどうか個人的には疑問なのですが、仮にこう呼んでおきます)や、セルジュの誠意や、贅沢や麻薬などに悪い意味で依存しており、子どものままでいようとしています。
「永遠の少年」にうっとりできる人は「そこがいいんじゃないの」とおっしゃることも重々理解できるのですが、19世紀の終わり頃の15~16歳というと、女性であればもう一人前とみなされて結婚させられる年齢であり、男性の方が大人になるのが遅いとは言え早く大人になることが社会的にも当然だったでしょうから、この幼さには「??」となってしまいました。

『オルフェウスの窓』も同じように、坂道を転げ落ちるようにどんどん主要人物が不幸になっていくお話ですが、この読後感の違いはなんだろうと考えたところ、『オルフェウスの窓』は登場人物たちがみんな「視線が自分の外へ向いていて」「戦って」いました。
不遇な境遇や、悲恋や、押し寄せる歴史の変化などに、もがきながら流されながら自分の非力さにうなだれながらも「自分の脚で立とう」という闘志を感じました。
『風と木』の方は、やはり内向的と言いますか、ジルベールの「どーして誰もわかってくれないんだ」「ぼくを愛してよ!! 誰かがなんとかしてよ!!」という「プライドが高いんだけど、哀れなコドモ」という部分がどうしても大きくて、読み終わったあとに「晴れ晴れとした不幸」(なんじゃそら)が感じられなかったせいかと思われます。
ジルベールに共感・同情できるかどうかで作品の評価はかなり分かれるでしょう。

それを言うならそもそもオーギュストが可哀相な人なんですが。
しかし、子どもの時に受けた仕打ちは自分のせいではないけれども、大人になってからしたことは自分の責任だと思いますよ、やはり。
そして、虐待を返していいのは虐待した本人に対してだけ、なんじゃないですか。
ほんとうに聡明な人なら、自分がやっていることに対して屈託があると思うのですよ。なぜこんなに平気でひどいことができるのか、とか、「虐待の連鎖」は言うなれば「非力な相手に対する八つ当たり」なので、そんなことをいつまでもいつまでもやってる自分がみじめになったり。なのにオーギュストの場合は、そもそも自分がやっていることが「ひどいこと」だという自覚もなさそうです。 単なるサディストならまだ「あー…」で終わるのですが(終わるな)、虐待を受けたことはだから他人にどんなにひどいことをしてもいいという免罪符にはならないんじゃないですか。
この母親もどっか壊れてますよね。
作中、「産んだ方と産まれた方と、どちらに責任があると思う?」というような会話があったかと思いますが、わたくし、そんな「問い」がそもそも成立すると思ってもいませんでした。「産まれた」方に責任がある、と言い出す親がいたら、そんな親にはさっさと見切りをつけた方が賢明だと思われますよ。

…とまあ、そうは言うけれどもそんな強い人間ばかりではなく、不幸で弱い人間が、また周囲の人を不幸にするのが現実なのだとも思いますけれども。
セルジュは最後にいちおうきちんと立ち直り、乗り越えました。「愛されて育った子は強い」し、「人を愛し愛されるような人になる」ということも、きちんと描かれていますね。
愛情も連鎖するのだと思います。

ところで、非常に気になっていることがあるのですが……。

以下ネタバレです↓



このジルベールを轢いた馬車に乗っていた男・・・・これはもしかして、ワッツ? ですか?

そうだとすれば、これまでの彼のキャラクターと合いませんね。 

若くして亡くなった親友の息子が可愛いのはわかるけど、そこまでやれるキャラクターには見えませんでしたが。(オーギュストあたりならへーきで2,3人殺しそうですけど…いや、彼の得意技は「生かさず殺さず、生殺し。」か。)
いくらなんでも人間の上に乗り上げたら、何か轢いたことはわかるでしょうから、ひき逃げですよね。ますますキャラクターに合わない。


ファンの方、真相をご存じの方、いらっしゃったらぜひ教えて下さい。この犯人の名前を。


*追記)実はセルジュのお父さんの話以降、なんだか読み飽きてしまい、斜め読みだったので読み直したのですが、駆け落ちしてからの生活はなんだか「金の切れ目が縁の切れ目」というか「二世を誓った仲の遊女を苦労して足抜けさせ、内職で必死で養う浪人だったが、腐っても武士の浪人は「ここだけは譲れない」という自尊心があり、遊女はそーゆーとこに惚れたんだったけど自分は生活能力ナッシング、おまけに廓の華やかさとほとんど歩かない運動不足の生活で、最終的には二人とも食い詰めて大川に身を投げようか…と投げやりになったところへ昔遊女の旦那だった大店の大旦那(もしかしなくてもボナール)が…」てな展開とだぶりましたよ。(ひでえ。)
by n_umigame | 2007-08-04 15:51 | コミックス