*さいはての西*

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『人間たちの絆』 スチュアート・カミンスキー著/棚橋志行訳(扶桑社ミステリー)扶桑社

刑事エイブ・リーバーマン・シリーズの第4作目。
警察小説が好きなのでおもしろいらしいと聞くとちょこちょこと手を出すのですが、翻訳を全制覇したのはマルティン・ベックシリーズくらいで、87分署シリーズは女性キャラにイライラして2作で挫折し、メグレ警視は(警察小説とは言い難いけれども)読みたいのだけれども入手困難で、カウフマン警視シリーズは主人公のカウフマンが好きになれず、デボラ・クインビーは未読だけどなんだかハーレクイン・ロマンスのにおいがするし(なんじゃそりゃ)、うおーおもしろい警察小説はないかないかー!! となまはげのように探していたところ見つけたのが、今回のシリーズです。
でもやっぱりもう絶版になっていて古本屋さんで探しました…。

「警察小説」の定義はむずかしいと思うのですが、個人的にはやはり群像劇であることではないかと思っています。
『アクロイドを殺したのはだれか』を読んだときまったくだと思ったのですが、本格ミステリだと主人公の探偵の論理(理屈)で話が進むため、探偵がこうだと言えばこうなのであり、もし探偵がパラノイアだった場合それを客観的に論破する「視座」が物語世界には存在しないのであります。
「いや、客観的な十分条件で論理的に証明されているのだ、パラノイアなどではありえない」というご意見もあろうかと思われますが、その「客観的な十分条件」もあくまでも閉じた物語の中の世界で提出されたものであり、いみじくもサン・テグジュペリが言ったように「論理はなんでも証明する」のであります。(通例「それを言っちゃあおしまい」だから誰も何も言わないし、そういう「お約束」だからいっしょに楽しめるのですが)

だからかもしれませんが、本格ミステリは大好きなのですが、「こんなのばっかり読んでちゃ「なんでも答えが出る」と思いこむ頭になって、人間としてまずいんじゃないか…」と立ち止まることがあります。
群像劇の場合、この危うさからはある程度解放されているので、安心感があるのかもしれません。つまり、人間は複雑で、いつでも理屈で割り切れるわけでもパターンどおりに動くものではなく、1+1は2になるとは限らないという不合理の中で生きており、それでも人生は生きるに値する、と思い直させてくれるからです。

前置きが長くなりましたが、このリーバーマンのシリーズもミステリや警察小説としてならほかに傑作がいくらでもあろうかと思われます。
けれども、国や時代が違っても人間の普遍性を感じさせてくれて、主人公たちをとりまく人生がしみじみとして語られて、その「語り」で読ませる小説です。

ハンラハンが目を上げた。「おれは例のやもめになりたての男が気に入らない。あいつの悲しみは偽物だ」
 リーバーマンはうなずいた。ハンラハンは悲嘆に暮れることにかけては世界チャンピオン級だ。
(中略)
「妻が死んでも幸せで、少なくとも不幸ではなく、妻を殺してもいない男がいてもおかしくない」リーバーマンは言った。

「あんたが好きだぜ、ご老体」エル・ペロがいった。
「その愛情を知っているからこそ、つらいときも耐えられる」と、リーバーマンは言った。

「人生はきびしいな、ラビ」
「人生はきびしいが、マーフィー神父、それにはそれなりの埋め合わせがある、たとえば……」
「カブスとか------」
「メイシュのところの新しいピクルスを添えたコンビーフとチョップトレバーとか-----」
「子どもたちとか-----」
「仕事とかな-----」
車はウェスタン通りで曲がって北に向かった。交通量は少なかった。
「コーヒーでもどうだ?」リーバーマンがたずねた。
「悪かない」


名前でおわかりかと思いますが、リーバーマンはユダヤ系、ハンラハンはアイルランド系で、ラビ、マーフィー神父というのはそれぞれのあだ名です。コンビで時々こう呼び合っているようです。
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by n_umigame | 2007-09-09 13:48 | ミステリ | Trackback | Comments(0)
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