カテゴリ:本( 358 )

『ロルドの恐怖劇場』アンドレ・ド・ロルド著/平岡敦編訳(ちくま文庫)筑摩書房

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二十世紀初めのパリで、現在のホラーやスリラーの源流となったグラン・ギニョル劇が大ブームとなった。その代表的作家ロルドの短篇小説傑作選。
(出版社HP・画像も)



怖がりのくせに怖い話大好きにせうみがめです、ごきげんよう。
怖い話は好きなのですが、「ぐちゃっ」とか「ねちゃっ」とかいう擬音が聞こえそうなグロ描写が、ぜんぜんだめ。映画だと目を反らしたりして、がんばって完走する始末です。
本当はそこまでして見たくないので、基本的にそういうのは見ません。戦争映画も医療ドラマもダメ。痛いのダメです。

そんなわたくしのTwitterのTL上に、刊行前に一部内容紹介が流れて来まして、そのあまりに酸鼻をきわめる描写にツイートを読んでるだけで貧血が悪化しそうになり、たじろいで敬遠しかけたのですが、実際に読んだ方の感想が出始めて、それらを拝見している限りでは自分でもいけるかもと読んでみました。

で、最初の収録作品『精神病院の犯罪』が、残酷描写のための残酷な話みたいな作品で、またここでいったん休止。
ほかに楽しい本を読んで体力が多少回復したところで、再度2作目から読み始めたところ、今度はいけました。

ことほどさように、グロ描写が苦手な人間には多少ハードルの高い作品集です。

内容紹介に「現在のホラーやスリラーの源流となった」とあるように、読み慣れてくると、現代の小説と言うよりは、民話や都市伝説などの残酷描写に近いものがあり、ある種の様式美、典型が見えてきます。
登場人物もモダニズム的な背景や厚みを持った人間というよりは、役割を与えられて動く駒のようで、現在のホラー小説のお手本になったのも納得です。基礎工的な作品が多いので、その上に土台を積んだりデコレーションを盛ったりと、応用が効くのですね。
実際、多くの方の感想で見かけたように、ある作品はスティーヴン・キング原作の映画『ミスト』にとてもよく似ています。

著者のド・ロルドは医者崩れだったそうで、この短篇集も病院が舞台だったり、心身の病気にまつわる(現在から見ると偏見に満ちた)作品が多いです。
人生で2回全身麻酔が必要な手術をしていて、加えてグロがダメ、痛いの嫌いな自分には、そこも非常に読んでいてつらい本でした。

お話としてはよくできているというと不遜ですが、さすがに「典型」を形作ったパイオニアの作品集だと思いますので、心身ともに健康で、なおかつグロ描写が平気という方には、おすすめいたします。

ですが、まかりまちがっても、入院している人のお見舞いには持っていかないようにしましょう。
鉢植えより良識を疑われること、必至であります。





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by n_umigame | 2016-10-02 23:04 | | Trackback | Comments(0)

『世界を食べよう! : 東京外国語大学の世界料理』沼野恭子編(東京外国語大学出版会)

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人はその食べるところのもの。東京外国語大学の世界各地・各ジャンルの研究者たちが腕によりをかけて贈る30の「食」文化エッセイ。
(Amazon.jpより・画像も)


世界各国の料理を東京外国語大学の先生方がレシピ付きで紹介してくださっているエッセイ本。

帯にずらりと並んだ各国のお料理を見ているだけで幸せな気持ちになります。食いしん坊です。

大学の先生の書かれたエッセイなので、情熱メガ盛りの勢いエッセイではなく、受け狙いもなく、文章はやや硬めで客観的で淡々としたものが多いです。
なので、読んでいて退屈だと思う人がけっこういらっしゃるようなのですが、逆にわたくしはこの客観性がツボにきてどうしようかと思いました。

先生方にとっては「世界」は日常生活そのものか、その延長線上に密接に在るもので、ことさらに言い立てるものではないということはわかります。
わかりますが、「淡々と何を言い出すのか」という、その通常営業っぷりが怖い。


例えば、開いた口がふさがらなかったのが、ロシアの「塩漬けきのこ」です。

今ではフランス料理のサービスの方式だと思われている、料理を一品ずつ給仕する方法(前菜から始まって野菜やスープ、パン、魚、肉、チーズにフルーツ、デザートにコーヒー…という順番でサーブする方法)は、ロシアから始まってフランスに伝わったものであるなど、お勉強になるところから始まって、ふむふむつまりロシアの人はよく食べるということですねと読んでいると、あ、これなら家でもできるかも。と目を引いたレシピが「塩漬けきのこ」でした。

でしたのですが。


●作り方
①森へきのこ狩りに行く。

そこからですか。

食用きのこと毒きのこを峻別すること。

まって。それ素人には無理なんですけど。
しかもここまでが①で、前段階として当たり前の話になってるのって、どうなの。

②食用きのこをよく洗い、

”きのこは水を吸いやすいので洗わないで調理する”という日本のきのこ類の常識も通じないんですか。
通じないんですね。
だってロシアだもの。

適当な大きさに切る。

写真を見るとわかるのですが、これコロボックル住んでるよっていうサイズ。
にっこりロシア美女の顔くらいあるんですけど。
それをこのごっつい大柄なロシア美女が抱えているかご一杯に…。

③鍋に水と塩を入れて火にかけ(以下略)

魔女が鍋で煮物してる姿が頭から離れないのはわたしがファンタジー読み過ぎなの。

④~⑥は省略しまして、

⑦40日ほどしたら食卓へ。

魔女サバトはちょうスローフードでした。
(サバト決定かい)

おとなしくスーパーで買ってきたきのこで塩きのこ作ります。(すごすご…)


ほかにもタイではフォーを食べに行くのは「愛人に会いに行く❤」みたいに取られるとか、中国で揚州獅子頭(揚州風肉団子スープ)が激うまだったので4日間食べ続けたらシェフが出てきたとか、もう、先生方…?
個人的にアジアのお料理がとても美味しそうで、何でも、2011年に世界で一番美味しい料理ナンバーワンに輝いたという(自分のTwitterのTLでも話題の)マッサマンカレーの素が手に入ったので作ってみよう思います。





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by n_umigame | 2016-09-19 17:32 | | Trackback | Comments(0)

『中継ステーション』クリフォード・D・シマック著/山田順子訳(ハヤカワ文庫SF)早川書房


アメリカ中西部、ウィスコンシン州の片田舎にある一軒家――ごくふつうの農家にしか見えないその建物は、じつは銀河の星々を結ぶ中継ステーションだった。その農家で孤独に暮らす、元北軍兵士のイーノック・ウォレスは百年のあいだステーション管理人を務めてきたが、その存在を怪しむCIAが調査を開始していた……異星人たちが地球に来訪していると知っているただひとりの男の驚くべき日々を描く、ヒューゴー賞受賞作
(出版社HP)


クリフォード・D・シマックは長年あこがれの作家でした。
エラリイ・クイーンにハマったときによくお邪魔していたサイト様に、シマックのコーナーもあり、その管理人さんのクイーン作品評が大好きだったので、この方がおもしろいと言うならきっとおもしろいだろうと期待していました。
ところが、当時(も今も)シマックの作品を新刊の日本語で読むことはほとんどできず、たまたまSF短篇集に収録されていた作品を2作ほど読む機会があったのですが、予想どおり自分の好きなタイプの作品でした。

それ以来まったく読むことができなかったところへ、この『中継ステーション』が新訳、しかも山田順子さんの訳で再刊されるなんて! 知ったときは小躍りして、買ってすぐはもったいなくて、読まずにずっと寝かしていました。


シマックの作品は、「田舎SF」とか「田園SF」とか呼ばれているそうです(笑)。
短編を読んだイメージからもそんな感じで、舞台はいつもウィスコンシン州であることが多いようで、おかげでわたくしのウィスコンシン州のイメージはシマックの描く世界です。
言ってしまえば、ど田舎なのでしょう。(映画『マダガスカル』の番外編「ペンギン大作戦」で「ここほんとに南極? ウィスコンシン州では?」というジョークがあって、アメリカでもそういうイメージなんだろうなと思って大笑いしました)

『中継ステーション』は、ウィスコンシン州にある、一見何でもない農家が舞台。宇宙人の中継ステーションを営むことになったイーノックは、宇宙人に見初められて(笑)不老不死になり、このステーションの管理人を務めています。
この宇宙人たちは理性的でおだやかで、ときにちょっとしたトラブルが起きないでもないのだけれど、イーノックはただただ通過していく宇宙人達を受け入れては送り出し、日々はただ静かに過ぎていきます。

宇宙人が出てきますが、まったく派手さはありません。派手なアクションもなし。女性キャラクターも出てきますが、そういうラブもなし。
冷戦の時代に、真の平和とは何かということを真摯に考え、伝えようとした作品だと思います。そしてこれがアメリカの人の書いた作品だというのが、また沁みてきます。
アメリカはときどきとんでもない国だと思うことがありますが、時代の一角に必ず善き心と自分にできることをしようという行動を伴った人が現れる分、日本より自浄作用がある国なのではないかと思うことがあります。

それが幻想だと言ってしまえばそれまでなのですが、いわゆる「古き良きアメリカ」の良心のような、あたたかさや居心地の良さが、シマックの作品にはあります。
どことなくシオドア・スタージョンにも通じるものがあるように感じました。ガジェットや壮大さで読ませるSFではなく、この人の文章や、描く世界にずっといたいと思うような心地よさがあります。読み終わったときに「ここ、これは傑作じゃあ!」と立ち上がってしまうような作品では無く、静かに本を閉じたら自分がにっこり微笑んでいることに気づくような。
これがSFだというのがとても面白い。SFというジャンルの幅の広さ、底の深さを改めて思ってしまいます。






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by n_umigame | 2016-08-15 21:05 | | Trackback | Comments(0)

『丹生都比売 梨木香歩作品集』梨木香歩著(新潮社)



胸奥の深い森へと還って行く。見失っていた自分に立ち返るために……。蘇りの水と水銀を司る神霊に守られて吉野の地に生きる草壁皇子の物語――歴史に材をとった中篇「丹生都比売」と、「月と潮騒」「トウネンの耳」「カコの話」「本棚にならぶ」「旅行鞄のなかから」「コート」「夏の朝」「ハクガン異聞」、1994年から2011年の8篇の作品を収録する、初めての作品集。しずかに澄みわたる、梨木香歩の小説世界。
(Amazon.jpより)


梨木香歩さんの小説やエッセイが好きでひところよく読んでいたのですが、最近とんとご無沙汰で、久しぶりに読みました。
地味に日本古代史祭りが続いていまして、どうしても表題作が読みたかったのです。

とりあえず表題作だけの感想ですが、以下、ネタバレです。








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by n_umigame | 2016-08-15 00:07 | | Trackback | Comments(0)

『ハイ・ライズ』J・G・バラード著/村上博基訳(創元SF文庫)東京創元社



ロンドン中心部に聳え立つ、知的専門職の人々が暮らす新築の40階建の巨大住宅。1000戸2000人を擁し、マーケット、プール、ジム、レストランから、銀行、小学校まで備えたこの一個の世界は、10階までの下層部、35階までの中層部、その上の上層部に階層化していた。全室が入居済みとなったある夜起こった停電をきっかけに、建物全体を不穏な空気が支配しはじめた。中期の傑作。解説=渡邊利道
(出版社HP)


こちらは原作の感想です。
映画の感想はこちらへ→


J・G・バラードとの接点は、高校生の時に読んだ短篇集『永遠へのパスポート』と、スピルバーグ監督作品で映画化された『太陽の帝国』の2点くらいでした。
代表作と言われる『結晶世界』も未読で、バラードがどういう作家だったのかはほとんど知りません。
ただ、多感な年頃に読んだはずの『永遠へのパスポート』をしてからほとんど記憶に残っていないところからすると、自分にはあまり刺さらなかったと見え、今回『ハイ・ライズ』を読んでみて、その理由が何となくわかったように思いました。

以下、感想です。
ネタバレがどうこうという種類の小説ではないと思いますが、真っ白の状態で作品を楽しみたい方は、ここで回れ右でお願いします。







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by n_umigame | 2016-08-14 23:07 | | Trackback | Comments(0)

『世界の辺境とハードボイルド室町時代』高野秀行、清水克行著(集英社インターナショナル)


現代ソマリランドと室町日本は驚くほど似ていた!
世界観がばんばん覆される快感が味わえる、人気ノンフィクション作家と歴史家による"超時空"対談。
世界の辺境を知れば日本史の謎が、日本史を知れば世界の辺境の謎が解けてくる。

【小見出しより】
外国人がイスラム過激派に狙われる本当の理由 / ソマリアの内戦と応仁の乱 / 未来に向かってバックせよ! / 信長とイスラム主義 / 伊達政宗のイタい恋 / 江戸の茶屋の娘も、ミャンマーのスイカ売りの少女も本が好き / 独裁者は平和がお好き / 妖怪はウォッチできない / アフリカで日本の中古車が売れる知られざる理由 / 今生きている社会がすべてではない
(Amazon.jpより・書影も)
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いきなりですが、上の紹介文にあるような
「現代ソマリランドと室町日本は驚くほど似ていた!
世界観がばんばん覆される快感が味わえる」
という本ではないです。

どこかで見たようなタイトル(笑)と、『マッド・マックス』を連想するような山口晃さんの「奨堕不楽圖」に引かれて読んでみました。
対談本ですが、対談されているお二人の波長が合っていて、テンポが良くて楽しく、読みやすかったです。
お一方は、ノンフィクション作家の高野秀行さん。観光旅行などでは人がほとんど行けないような世界各地を訪れて、たくさん著作もある方ですが、実はわたくし、腰痛の本『腰痛探検家』しか読んだことがありません。
清水克行さんはNHKの「タイムスクープハンター」の監修もされていたという、中世史研究家で現役の大学の先生。こちらの方の本も未読です。


この本の誕生のきっかけは、柳下毅一郎さんがTwitter上でお二人の本の共通点を指摘されたからだそうです。帯にも「現代ソマリランドと室町日本、かぶりすぎ!」とありますし、タイトルもタイトルなのですが(私もこのタイトルに釣られましたし)、この本の主眼は「ソマリランドと室町時代、似てるねー!」「ほんとだすごいねー!」と言って盛り上がることではなく(それなら居酒屋でやってくださいという話です)、日本にいても「今」「ここ」以外の場所や時代にも思いを馳せてください、ということだと思います。

同じ時代を生きているけれども、日本以外の世界中の様々な国や人のものの見方、考え方。
同じ国に生まれたけれども、自分が生きている時代とは違う、とある時代の人々のものの見方、考え方。
自分に直接関係のない世界の情勢や、もう過ぎ去ってしまった、この世にいない人達のことも勉強することが大切なのは、自分の視野を広げて柔軟な思考力を養うこと、それに尽きるということが、この本からは伝わってきます。
それぞれに何か理由があったり、大した理由はなかったり(笑)しますが、それすらも、人間って全然考え方が違うこともあってすれ違うことも多いけど、逆に、所が変わっても時代がかわっても変わらないことは変わらないんだなと、にこにこしてしまうところもあります。
それをおもしろおかしく対談で語ってくださっていて、本当に爆笑した箇所も何カ所かありました。

それがたまたま、ソマリランドと室町時代だったということなのですが、ソマリランドにしても室町時代にしても、知識の対象として一般的な日本人の視野に入りにくい、エアポケットのような部分だと思うので、そこに光を当ててくださったことはありがたいと思います。わかりやすいですし。

本書の中で、高野秀行さんは、深刻な事実を重々しく伝えようとすると、その重々しさ、暗さだけで人は顔を背けてしまう。結局その問題や存在自体が丸ごと無視されてしまうので、そこに明るい面を見せて引き込むことも大事だと思うとおっしゃています。そういう意味では、笑いながらこの本を読んだ自分は、まんまとその策にはまったということですね。


本の内容については、雑学的にテーマがぽんぽんと飛んでいくので、興味を持たれる部分は人それぞれかと思います。

私の場合は、いちばん知りたかったのは、応仁の乱はなぜあんなに長い間続いたのかということでした。これは、足軽が戦争に参加するようになったこと、足軽が略奪部隊だったのではないかという説があることなどで、ある程度理解できるようにも思いました。足軽は、農村で食い詰めて兵隊にでもなるかとなった者が多くて、乱暴でなんら泥棒と変わることのない集団だったと。そんな集団がずっと都を荒らして回ると軍規は機能せず、いつまでたっても戦後処理ができませんよね。
これについては、表紙から『マッド・マックス』を連想したのも、あながち間違いではなかったです。

よく言われるあるあるネタに、京都の人が「前の戦争」と言うときは第二次世界大戦のことではなく応仁の乱を指すというものがあります。これは私もネタだと思っていた時期があるのですが、実際に年配の方に言われたことがあり、「ラピュタは本当にあったんだ!」みたいな気持ちになりました。
日本史上で京都が焼け野原になったのは応仁の乱以外にたえてなかったからですが、それだけ京都の人にとってはインパクトの強い戦争だったということでもあるのでしょう。

「外国人がイスラム過激派に狙われる本当の理由」なども、今などむしろ喫緊のテーマなのではないでしょうか。これも、なるほどなと思いました。
刀狩りや、徳川綱吉の功績なども、現在アメリカで銃の乱射事件で毎日のように人が犠牲になるニュースを見ていると、考えさせられることがあります。
刀狩りが失敗していたら、日本でも一般の家庭で銃器を所持しているのが当たり前の世の中だったかもしれません。綱吉も、どちらかというと暗君のイメージがあったのですが、これも新しい見方でした。

などなど、こうやって書くとテーマ自体は重いですが、それが楽しく読んですっとしみてくるように話してくださっています。

一つ、中世と言えばになりますが、「伊達政宗のイタい恋」のところで、清水先生が、大学で
「同性愛の話をすると学生は喜ぶんですよ、特に女の子が。」
っておっしゃってて、すみません先生すみませんってちょうあやまりました。私があやまることではないのですけれどもー!
あと先生、それ、一部の女の子だけだと思いますーーー!!

「同性愛には文化的な側面があって、男らしさや女らしさというものは歴史的に変化していくものなんだって学生にわかってもらうために、僕はこの話をする」と清水先生はおっしゃっています。


おすすめします。


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by n_umigame | 2016-07-20 00:07 | | Trackback | Comments(0)

『人間・始皇帝』鶴間和幸著(岩波新書)岩波書店



苛烈な暴君か、有能な君主か。中国最初の皇帝の生涯は謎に満ちている。出生の秘密、即位の背景、暗殺の経緯、帝国統一の実像、焚書坑儒の実態、遺言の真相──。70年代以降に発見された驚くべき新史料群に拠り、『史記』が描く従来の像を離れ、可能な限り同時代の視点から人間・始皇帝の足跡をたどる画期的な一書。
(Amazon.jpより・書影も)
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「始皇帝と大兵馬俑」展を見に行くのが楽しみだったので、復習も兼ねて読みました。
「人間~」というタイトルになっていますが、始皇帝の個人的なキャラクターに迫った本ではありません。そこも知りたいですね。
ですが、これまで司馬遷の『史記』に頼るしかなかった部分も、新たに出土した竹簡などの史料を反映した内容になっていて、読んでよかったです。おかげで「大兵馬俑」展も新鮮な目で見ることができました。


「そうだったのか」と驚いたことがいくつかあります。

まず「宦官」という言葉は、通例、皇帝の寝所、つまり後宮にも出入りすることが許された去勢された男性の官吏を指すと思っていたのですが、「宦」には去勢された男子という意味はないそうです。
ですので、かつて、司馬遷が「中国史上、最もムカつく奴。許せない」と言ったという、趙高が、いわゆる宦官ではなかった可能性があるということ。
宦官と言われると、ホルモンのバランスが崩れて髭がはえなくなったり声が高くなったりお肌つやつやになったりという身体的な女性化に加え、中身も女性的な陰湿さを備えた人になってしまうというイメージがあり、過去読んできた歴史関連本や歴史小説でも、そんな感じでした。
趙高がいわゆる宦官ではなかったと言われると、脳内のイメージ図を描きかえなければならず、そこにまた違うイメージがわき上がってきて、自分内、いろいろ祭りでした。

もう一つは「五十歩百歩」の故事の元になった話。これもほんとうは、五十歩逃げた兵士と百歩逃げた兵士では、軍規に照らしたときの罰の重さが全然違ったという説。「倍違うじゃないか」と。言われてみればその通りですね。でももう「五十歩百歩」が「大差がないことを言う故事」ということは、しばらくひっくり返らないでしょうけれども。

ほかに、始皇帝の本名は「政」か「正」かなど、竹簡の発見がなくてはわからなかった事実がいろいろと判明してきていることがわかります。

そして一番わくわくしたのは、始皇帝の遺体が発見される可能性が残っているということです。
今後、さらに発掘や研究が進んで、いつか始皇帝の遺体が発見されたらと思うと、どきどきしますね。
中国は、文化大革命のときに、過去の文物や歴史的遺物をたくさん破壊してしまいました。
あれだけ豊かですばらしく面白い歴史を持っている国が、そんなことをしてしまったのはほんとうに惜しいことと思います。これから先は二度と同じ過ちを繰り返さないように、新しい発見があることを祈ります。

***

始皇帝その人と、その時代のイメージは、ご多分に漏れず(?)司馬遷の『史記』と、『史記』を典拠とした司馬遼太郎さんや陳舜臣さん、安濃務さんの著作から得られる知識からくるものでした。
ですが、高島俊男さんがおっしゃるように、「中国人にとって歴史とは大河ドラマのようなもので、大筋は事実だが、ディティールはフィクション」であり、「「正史」とは「正しい歴史(書)」という意味ではなく、その時代の為政者とその王朝が正しいとする/したい歴史を記したもの」のこと。
なので、正史とされる『史記』も、これは大河ドラマみたいなもので、事実ではないこと、著者の想像も含めて書かれていると考えなければならないわけです。当然と言えば当然だし、ちょっと考えたら、「この現場、全員死んでるはずなのに、誰が見たんだ」みたいなところは『史記』に限らず頻出しますよね。「講釈師、見て来たような嘘をつき」であります。でも面白いので、嘘でもいいやって思ってしまうのですが(笑)。

フィクションの中でいちばん印象に残っているのは、台湾の漫画家・鄭問(チェン・ウェン)さんの『東周英雄伝』に出てくる始皇帝です。(鄭問さんは始皇帝にやはり興味があったのか、後に始皇帝を主人公にした長編も描かれたようですね。こちらは未読です)
この鄭問さんの始皇帝、可哀相なんですよ。
『史記』をざっくり漫画化しただけと言えばそうなのですが、始皇帝は実の母親に殺されそうになるんですね。
王族だし古代のことだし、現代人の感覚で考えてはいけないのかもしれませんが、実の母親に殺されそうになって嬉しい子どもはいませんよね。それが、始皇帝がどれだけつらかったかということが、一コマ(一ページ)で伝わってくる切ないシーンがあって、忘れられないのでした。

とは言え、母親に殺されそうになったからって何やってもいいってわけでもないですけども。焚書はやはり、個人的にあかんリストのトップに来てしまいます。あと刑罰がとても残酷。(このあたりは彼我の感覚の差なのでしょうが、戦争で食料がなくなったときに将軍が自分の妻子を兵卒に食わせたという話が美談として残るという一点で、なにをかいわんやでございます。中国史関連の本が好きでも、こういうところだけは何回読んでも慣れることができません。日本にも『ひかりごけ』とかありますから、あったことは間違いないのですが)


治世が短かったことや、その後すぐ漢が立って、漢は前漢・後漢と長続きしたこともあり、始皇帝は必要以上に悪く書かれている可能性が高いと、司馬遼太郎さんや陳舜臣さんもおっしゃっていました。
それでも、たった39歳であの広大な中国を統一し、通貨、度量衡、道路の幅、馬車の車輪の幅を統一したのですから、すごいです。
そのあと「死にたくない。不老不死になりたい」って変な宗教にハマっちゃわなければ、もう少し長生きできたかもしれないのに…と、そこが残念です(薬と称して水銀とか飲まされていたようですし。それは健康な人でも寿命を縮めます)。人間、目標を達成してしまって守りの体制に入ったときが危ない、ということも教えてもらいました(笑)。
でもきっと、本当にやりたいことがもっともっとあったのでしょうね。そのために元気で長生きしたいと思う気持ち自体を笑うつもりはありません。不老不死になってまでも、ずっとやり続けたいことがあるというのは、幸せなことです。

始皇帝墓の発掘、ぜひがんばって遺体を発見していただきたいと思います。



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by n_umigame | 2016-07-19 00:27 | | Trackback | Comments(0)

『オズの魔法使い』フランク・ボーム作/幾島幸子訳(岩波少年文庫)岩波書店


大竜巻に家ごと空高く吹き上げられた少女ドロシーは、愛犬トトとともに不思議なオズの国へ着陸しました。かかし、ブリキの木こり、おくびょうなライオンが仲間に加わって、一行はエメラルドの都をめざします。アメリカの人気作品。小学4・5年以上。
(Amazon.jpより)


樹なつきさんの『OZ』を読んだので、元ネタと言いますか本歌取りの本歌の方を読み直してみることにしました。と言っても、読んだことがあったのは、子どもの頃家にあった幼い子ども向けの絵本で、内容はリライトされていたと思います。

いやー………。
読み直すんじゃなかったとまで思いましたね。

なぜなら、記憶にあるよりもっともっとディティールがひどい話だったからです。
些細なところはどうだっていいじゃないかというご意見もあるかと思われますが、「神は細部に宿る」のです。

このお話、ファンがたくさんいらっしゃると思いますし、ちらっと感想を検索してみてきた限りでも、皆さん絶賛されている方がほとんどでした。疑義を呈されているの方の感想も訳の違いによる部分などで、作品に対する評価ではなかったりします。
かえってそれが怖かったので、自分の感想を上げておきます。

ファンの方で、うっかりこのブログにたどり着いてしまった方は、回れ右でお願いいたします。

全編のネタバレになるので、もぐっておきますね。









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by n_umigame | 2016-07-10 02:43 | | Trackback | Comments(0)

『診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち』ロバート・D・ヘア著/小林宏明訳(ハヤカワ文庫NF)早川書房


酸鼻を極める凶悪犯罪研究の先進国アメリカで、心理学者は異常殺人者に共通するある傾向に注目してきた。つまり極端に自己中心的で著しく情緒に乏しく、人を魅了し操る能力に長けているのだ。彼らはサイコパスと呼ばれるが、このような人間は実はわれわれの身近にも潜んでいる―非行少年、詐欺師、暴力亭主、幼児虐待者、カルト教団の教祖として!多くの実例を通じて「良心の呵責なき者たち」の素顔に迫る戦慄の一冊。
(Amazon.jpより)


少し前に書店で平積みになっていたので、何か改訂や増補があったのかと思ったのですが、奥付を見ると特にそういうわけではありませんでした。
未読だったので、目があったのを機会に読んでみました。(書店で目があった本って、やはり何かご縁があると思うのですよ。買う買わないは別にして)

内容紹介はAmazonからですが、すでにして時代を感じます。日本で単行本が出たのが1995年ですから、すでに20年以上経っています。内容的には、やはり古さが否めない本でした。

わたくしが知りたかったのは、主に、「なぜサイコパスは一定数生まれてくるのか」ということだったのですが、結論から申しますと、この本からは解答を得ることができませんでした。

長くなりましたのでもぐります。










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by n_umigame | 2016-07-09 23:57 | | Trackback | Comments(0)

『幼年期の終わり』(CHILDHOOD'S END)原作とドラマ


戦争や疫病が消え、平和がもたらされた地球。しかし、その代償とは?
アーサー・C・クラーク原作のSF史に輝く不朽の名作の初の映像化!
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(AXN・画像も)


やっとドラマを見終わりました。
原作も懐かしくなってうん十年ぶりに再読したのですが、この傑作についての詳しい感想や考察はほかにすばらしい記事がたくさんありますので、そちらをごらんください。
こちらでは簡単に、原作とドラマの違いについて感じたことを記しておきたいと思います。


以下ネタバレしています。


***


初めて原作を読んだときの自分の年齢が確か14歳か15歳だったので、なおさらそう感じたのかも知れませんが、すばらしいハッピーエンドの小説だと思ったことを覚えています。

ところが、ドラマ版を見てみたら、何ですかこの鬱々とした展開は(笑)。あの14だか15だかのときに自分が感じた多幸感はニセモノだったのか。
そうではなかったのです。
そして、なぜこんな鬱展開になったのか、わかるようになった自分がおりました。

それは、どちらの立場でこの物語を見るか、という点にかかっているということだったのですね。
つまり、取り残され、次に進むことは叶わず、地球とともに滅亡していくしかない旧人類、子どもたちの世界へは決して共に行くことができない旧人類なのか。
あるいは、宇宙に存在する何か超越的な存在に見いだされ、進化し、生命にとっては限りなく無限に近い宇宙へ飛び出して行くことが許された新人類なのか。

初読時のわたくしは純粋に新人類に共感し、現在の自分は旧人類の気持ちもわかるようになったということです。

しかも、これは、原作だからハッピーエンドで、ドラマだから鬱展開だというような単純な話ではないのが面白いところです。
原作を読んでも「鬱々とする」という感想を寄せておられる方もいらっしゃるので、原作も旧人類に共感して読むと、そうなってしまうのですね。
原作は1953年(英での刊行)の作品で、原作者のアーサー・C・クラークが36歳のとき。30代前半はもう子どもとは言えないものの、やはり比較的若いときに書かれた作品ではありますが、あくまでも、原作をどう解釈するかということろにかかっているのです。

***

初読時、すばらしい多幸感とともに読み終わったのも当然だったのだなあと、今回再読して改めて思いました。
「(旧)人類があれほど憧れ、謎を解明したいと望みながらもついに見ることのかなわない世界を見ることができる新しい人類が誕生する」物語なのですから。
このまま行けば、間違いなく地球と共に滅亡する(地球にも寿命がありますから)人類にも、新しい世界が開かれている。それはわたしたちが物理的に宇宙船に乗ってどこかへ行くのではなく(それでは結局今の人類が宇宙へ行っても同じようなことを繰り返すだけなのが目に見えています)、まったく新しい人類として宇宙へ飛び出して行く。そこではもう、今の人類が果てしなく繰り返しているような愚かなことはされないだろう。進化しているのだから。これがハッピーエンドでなくなんだというのでしょうか。

原作でも、エネルギーがすべて吸い取られ崩壊していく地球に一人残る青年ジャン(ドラマではマイロ)がいますが、ジャンは、こう言っています。

ある感動が大波のようにぼくを襲うのを感じました。それは喜びでも悲しみでもない、何かが満たされた感じ、何かが全うされたという感じです。
(ハヤカワ文庫2015年6月38刷・福島正実訳 p.394)

この最後の人類となったジャンの、崇高な、それでいて背負うことのない素直な誇り。個としての自分、人類という種は滅んでいくけれど、個としての人間としても自分は生ききったという達成感、しかも、人類の最期をその自分が見届けることができたという達成感は、やはり悲しさより喜びの方が大きいと感じます。(そうあってほしいという自分の気持ちの投影なのかもしれませんが)
このジャンの達成感は、自分の血を分けた子が生き延びるために選ばれたとか、そんな小さな個人の話ではありません。本当に、人類という種を、自分の人生が終わるそのときに、我が身に引き受けているのです。
「自分(=旧人類)の死」を「全う」できたという誇らしさ。個人に置き換えるなら、すばらしい人生を生ききったという喜び。悔いがないからこそ静かに迎えることのできる眠り。それは滅びの美学などという陳腐で安っぽいものではありません。ジャンの気持ちはそこにはないからこそ、この清々しい最期なのだと思います。


ところが、ドラマ版は、これを「人類の新世界への飛躍というすばらしい未来を描いた物語」とは解釈していませんでした。明らかに旧人類に肩入れして描かれています。
視聴者もそう感じるように、印象操作されていると思いました。
原作では国連の代表で、人類との窓口役でしかなかったストルムグレンのドラマがやたらくどくてセンチメンタル(笑)なのも、その一環かと思います。「旧人類」が共感できる「隣のお兄さん」が必要だったからでしょう。
子どもを奪われる親はただただ泣き叫び、最後の人類となったマイロは死ぬ直前まで恋人は死んでしまったのかと未練がましく(もう会えないのは地球を出発した時点でわかっていたはずです)、ずっと泣き出しそうな顔をしています。(マイロの誠実さを出したかったのかもしれませんが、その愁嘆場はもうさんざん出発するときに見たからー!)
ドラマ版は、旧人類には確かにアピールしたでしょう。滅び行く人類にはてしなく"寄り添った"ドラマとして。ただ、そうすることで、どうしても凡百の終末ものSFと大差がないものになってしまっています。

原作の『幼年期の終わり』がこれほど長い間読み継がれているのは、人類の進化や好戦的でない宇宙人がやってきたお話だから、というだけではないと思います。
そこに、「今の人類では(もしかしたら永遠に)行くことのできない宇宙」への希望が、「新しいいのち」に託された作品だからではないでしょうか。
クラシックSFらしいオプティミズムにあふれた作品だとは思います。今回再読してみて、こんなに単純なお話だったのかと正直驚きましたので。
ですが、最後には希望しかないのだということも、認識を新たにさせていただきました。
こんな作品に、多感な年頃に出会っておいて、本当によかったと思っています。






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by n_umigame | 2016-06-19 23:32 | | Trackback | Comments(0)

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