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*さいはての西*

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『天の光はすべて星』 フレドリック・ブラウン著/田中融二訳( ハヤカワ文庫 SF)早川書房

1997年、人類は星々に対する情熱を失い、宇宙開発計画は長い中断の時期に入っていた。
星にとり憑かれた57歳のもと宇宙飛行士マックス・アンドルーズは、そんな世界で無為の日々を過ごしていた。
しかし、木星探査計画を公約に立候補した女性上院議員候補の存在を知ったとき、彼の人生の歯車は再び動き始める。
もう一度、宇宙へ――老境に差しかかりつつも夢のために奮闘する男を、奇才ブラウンが情感豊かに描く古典的名作。
巻末エッセイ:中島かずき (Amazon.jp)


うーーーーーーん。微妙。

初老の男が星(宇宙)に憧れて…という設定から『スペース・カウボーイ』みたいなお話なのかと思いきや、まったくそうではなく。いや、そういうお話を期待していたわけでももちろんないので、だってフレデリック・ブラウンだし、だからがっかりしたと申しているわけではありません。

老人たちがタッグを組んでさまざまな目標に向かってトライする、という物語はいろいろとありまして、これが老人がたった一人だと悲壮感が漂うが、グループ(2人以上)になるとそこに「少年の輝き」とでもいうものが発露する、と書いてらっしゃったのは内田樹さんですが、一人+恋人だとどうなるかという実験的シチュエーション作品として見た場合、はっきり申し上げて、これ、大失敗ではないでしょうか。

老人が恋愛するなと言っているわけではないですよ。
主人公は57歳で相手の女性は45歳なので、現在からすればまだお年寄りというのは気の毒な年齢です。
この小説が書かれたのは1950年代ですが、そんなことは気にしません。(『クイーン警視自身の事件』を読んで「なんてすばらしいラブコメなんだ!!」と大爆笑したクチですので)

なので、やっぱり、キャラクターだと思うのですよ。

SFとしてはやはり今となってはいろいろと不自然で、それが物語に入り込めない一因になっているということもあると思いますが、(例えば、通信手段が固定電話と電報から進歩していないとか、惑星の知識が間違っているとか、21世紀が西暦2000年から始まっているとか)それより気になったのはこの人類への満腔の信頼と、未来に対する楽天主義でしょうか。
わたしたち人間は環境を変えられる、恐竜のように環境に翻弄されて滅亡したりしやしない、と主人公が熱く語るシーンがあるのですが、環境を変えてしまったことで人類の存続も怪しまれるという現状をまったく想像に入れていないということには、やはり違和感を覚えてしまいました。

違和感が大きい理由のもうひとつの原因が、訳文。
訳文、特に人物のしゃべり方が古くさいのは仕方がないのかもしれませんが、一番違和感を感じたのは、主人公。
一人称が「わたし」の人のしゃべり方じゃないだろう、これ。

あと、この解説はアニメに興味のない人間にはまったく理解できません。
SFが好きな人はアニメにも興味があって当たり前だと思われているのでしょうか。編集者はよくこの解説でオッケー出したなあと思いました。


ひとつ、どんでん返しになるシーンがあるのですが、ここだけは「フレデリック・ブラウンだ!」と思いました。
伏線は引かれていて、何かに取り憑かれている人間は狂っているようなものだ、というセリフがありましたが、まさか本当に狂っているとは。
by n_umigame | 2009-10-24 18:30 |