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*さいはての西*

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『九尾の猫』エラリイ・クイーン著/大庭忠男訳(ハヤカワ文庫)早川書房

手当たり次第に殺人を犯し、ニューヨーク全市を恐怖にたたきこむ連続絞殺魔<猫>。その冷酷な犯行には動機もなく、目撃者もいない。唯一の証拠は、犠牲者の首に結びつけられた凶器の絹紐だけだった……父のクイーン警視をたすけ、この影なき殺人者を追うエラリイ。恐るべき連続殺人をつなぐ鎖の輪を求めて、エラリイと<猫>との息づまる頭脳戦が展開される!巨匠のエネルギッシュな大作、待望の改訳決定版。
(カヴァー裏)


翻訳家の大庭忠男氏が2012年12月26日に亡くなられました。(新聞に記事が掲載されたのは2013年1月16日夕刊でした)
追悼記事を書こうと思っていたのですが、なかなかまとまらず、考えた末に非常に個人的な感想としてのこの本の紹介という形を取らせていただくこととしました。

ですので、ミステリーとしての感想や評価を知りたいという方にはあまり役に立たない記事であることを、最初にお断りしておきます。
ネタバレがありますので、未読の方はそれもご注意ください。

『九尾の猫』エラリイ・クイーン著/大庭忠男訳(ハヤカワ文庫)早川書房_d0075857_1631670.jpg



大庭忠男さんはクイーンのと言うよりは、コリン・デクスターやシドニイ・シェルダン(の超訳でない)訳者としての方が有名な方だったのではないかと思います。
わたくしはコリン・デクスターのファンでもありますが、それでも自分にとってはエラリイ・クイーンの訳者であった方です。

通常、翻訳者というのは黒子的側面が大きいためか、意味さえ取れれば良いという方、あまり気にしないという読者もいらっしゃいます。本業が作家で、翻訳「も」するという訳業をされている方以外に、翻訳者自身に興味をもつということは、一般的には少ないというのが事実ではないかと思います。わたくしもそうだったのですが、大庭忠男さんは数少ない、この人はどういう人だったんだろうという興味を持った翻訳者の方でした。
そのきっかけが『九尾の猫』の中に出てくる次の一文です。

一つ一つの死を特別のものにするのは愛だとエラリイは思った。愛だけだと言っていい。
(p.378)


このエラリイのモノローグは、以下のような前段を受けています。

「(前略)またこれが、殺人の件数がふえるにつれてここの被害者の特徴がぼやけ、ごっちゃになってしまう種類の事件だったせいもあります。終わりごろの世間の印象では、畜殺場に送りこまれた同じような九頭の牛の死体の山という感じでした。ベルゼンや、ブーヘンワルトや、アウシュビッツや、マイダネックの虐殺された死体の写真を見るのと同じ反応で、個々の区別はなく、ただの死でした」
 「クイーン君、事実の方の話は?」かすかないらだちと、別の何かがこもった声だった。そのときエラリイは、ユダヤ系ポーランド人医師と結婚したベラ・セリグマンの一人娘がトレブリンカで死んだことを突然、思い出した。
(p.378)


旧訳ではこうなっていました。

愛は死を特別なものにする……エラリーは考えた。そして、それだけの事さ。
(『九尾の猫』村崎敏郎訳、p.313)


テキスト。

Love particularizes death, Ellery thought. And little else.
("Cat of Many Tails" Pocket Books, 1959, c1949)


旧訳はなぜこんな冷笑的な訳になったのかわかりませんが(笑)、原文を見ても、前段からの流れを考えても、大庭訳の方が良いように思います。
何より、旧訳と大庭訳では、エラリイというキャラクターの印象が全然変わってしまいます。
突き放したようで冷たい印象の旧訳のエラリイと比べて、大庭訳のエラリイは、セリグマンを始め、愛する人をなくしたほかの大勢の人たちへの静かな共感が感じられます。
誤った犯人を指摘したことで、死ななくて済んだはずの人を殺してしまったと嘆くエラリイで締めくくられる本作ですので、そういう意味でも大庭訳の方が適切だと思います。
村崎訳だと、このエラリイに泣かれても嘘くさいというか(笑)今は泣いててもまた同じようなことやるんだろアンタって子は、と思ってしまいます。(国名シリーズの頃から『十日間の不思議』まで、犯人に自殺させたりしていましたしね…。あ、村崎訳はそれまでのこういうエラリイを受けたのかもしれませんね。)

また、これは訳者の方に、ユダヤ系の作家だった…つまり自身も愛する人を戦争でなくしたかもしれないエラリイ・クイーンへの共感がなければ出てこない文章だったのではないか、そう考えて、大庭忠男さんという人はどういう人だったのだろうという興味がわきました。

大庭忠男さんはクイーンより10歳ほどお年下で、1916年生まれ。極東国際軍事裁判国際検察部翻訳顧問をされたこともあったそうで、世代的にもお仕事的にも第二次大戦のさなかの方です。
唯一、『戦後、戦死者五万人のなぞをとく 1945.8.15』という翻訳書でない著書を出しておられて、これも読んでみました。

Amazonにある内容紹介を引用しますと、
「昭和二十年八月十五日、天皇がポツダム宣言を受諾して、全戦線の戦闘停止を命じたにもかかわらず、中国の華北方面では、その後約八カ月も戦闘が続けられました。そのため実に五万人もの戦死者が出ました。インパール作戦やガダルカナルの悲劇をはるかにしのぐ犠牲です。著者の兄も犠牲になった兵士の一人ですが、なぜそんな奇怪なことが起こったのか、いったいなんのために戦ったのか、そういう謎をとくのがこの本書の眼目です。」

大庭忠男さんもお兄さんをなくされています。

『九尾の猫』はミステリーとしては、現在となっては大時代的であることは否めない作品なのですが、この作品がなければこれほどエラリイ・クイーンにはまることはなかったと思います。
それも、この大庭忠男さんの訳でなければ、これほどまでにはまらなかったでしょう。

クイーンの作品としても重要な作品に違いないと思います。
国名シリーズの頃の被害者は「殺されて当然」のようないやなヤツ、ということが多かったのですが、『九尾の猫』では無辜の市民でした。
被害者一人一人の人となりや生活やその家族にまで触れて、こんなひどいことが許されていいのかと憤るクイーン警視の姿は、国名シリーズの頃には見られなかったものです。
また、巻末に、捜査に当たった警察関係者から被害者の家族まで、登場人物一人一人の名前の一覧表がついています。
「名前」だけの一覧であって、刑事だけは「刑事」という但し書きがついていますが、ミステリー小説につきものの登場人物紹介とは趣の違うものです。
発表された1949年という年を考え合わせると、作家クイーンが何を訴えたかったのか、考えてしまいました。

旧訳は古本で買ったので、前の持ち主と見られる人の感想が余白に鉛筆で記入されていたのですが、「クイーンの常としてあまりにもバカバカしい話が多すぎる」「全てを大サワギにしてしまうのである」「この『九尾の猫』にしてもあまりにもフザケすぎ、サワギすぎ」「冗長」とボロカスです。
まったくおっしゃるとおりで、否定できません(笑)。

ですが、クイーンは確かに変わろうとしていました。
それを感じます。
国名シリーズの頃のエラリイに延々と付き合わされたら、わたくしも「もういいや」となっていたと思います。
消去法で、理屈で犯人を突き詰めていくミステリーも成功を収めました。でもそこでは、本格ミステリというジャンルの性格上の制限から、キャラクターはどうしても「駒」として使い捨てにされがちでした。
でも「いつまでもこれじゃだめだ」と作家クイーンも思っていたということですよね。だから変わろうとした。
自分たちが成功したパターンにしがみつかず、新しいことに挑戦して、それが成功したかどうかは評価が分かれるにせよ(笑)、1970年代初頭まで現役であり続けた。
自分たちに成功をもたらしてくれたいわばドル箱キャラクターを、大人になって振り返って正直に「イタいよな、こいつ」と言える(笑)。
なかなかできることではないと思うのですが、いかがでしょうか。
少なくともわたくしは、愛さずにはいられませんでした。

それも危うく見捨てそうになったところを、大庭忠男さんの、この訳文の一文が、引き留めてくれました。
大庭忠男さんという訳者の方についてもですが、クイーンという作家について考えるきっかけをくれたのでした。
そういう意味で、感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。
改めて大庭忠男さんのご冥福をお祈りいたします。
by n_umigame | 2013-02-11 18:10 | *ellery queen*