2018年1月22日(現地時間)、アーシュラ・K・ル=グウィンさんが逝去されました。
88歳。ご家族のお話を記事などで伺う限り、安らかなご最期だったとのことです。
ご逝去の報を聞いてから何度か追悼記事を書こうと思ったのですが、どうしてもうまくまとまらず、立派な追悼記事は英語のものを始め、たくさんウェブ上でも読むことができますので、今さら自分がそこへ混じってもとも考えました。
ですが、そういうことではないだろうと思い直し、やはり個人的な気持ちを書き記しておくことにしました。とりとめのない、だらだらとしたものになるかと思いますが、お許しください。
それでも良いよという方のみ、以下、お入りください。
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生き方が変わったとまでは言いませんが、ル=グウィンさんの本に出会わなければ、とりあえず今ここに、"この"自分はいなかっただろうと思っています。それくらい自分にとっては、思い返すと決定的な出会いでした。
このブログのタイトル「さいはての西」は、ゲド戦記第3巻『さいはての島へ』(原題"The Farthest Shore"(さいはての岸辺))からつけたものです。そもそもブログを書こうと思ったきっかけもジブリ映画の『ゲド戦記』について一言申しておかねばならんと思ったからでした。
ゲド戦記に出会ったのは大人になってからです。ル=グウィンの作品で初めて読んだのは10代の頃に読んだ『闇の左手』だったのですが、美しくおもしろいSFだとは思ったものの、この物語が発表当時も、あるいは今でも、どれほど画期的な作品だったかということが理解できるほどの知識はまだない状態でした。
けれども、大人になってから出会ったゲド戦記の第1巻『影との戦い』は衝撃でした。
しかも物理的にその本と「出会った」としか表現しようのないドラマティックな出会いでした。
仕事で何か気落ちすることがあって書店に寄ったのですが(当時のわたしは気落ちすると書店に寄っていました。今もですが)、その書店は配置換えだか棚卸しだかで、店舗の一部の棚ががら空きでした。今でも覚えていますが、その真っ白な書棚に、紫色の『影との戦い』が1冊だけポツンと残っていたのです。
ここまで強烈に「目が合った」本は初めてでしたし、あれからこんな出会い方をした本はありません。いわばスポットライトを浴びて、この1冊だけが浮かび上がっていたようなものです。
以前から「読まねば」と思っていた本ではありましたが、「ねばならぬ」で人間が(嫌々)動くとき、パフォーマンスは落ちるものです。ですが、そのときはそんなことを頭が考える間もなく、めったに買うことはなかったハードカヴァーのその本を手に取って、まっすぐレジに向かっていました。
話ができすぎていて信じてもらえないかもしれませんが、そうだったのです。
すぐ1巻を読み切り、次の週末には2巻から4巻までを徹夜で読み切りました。(当時は4巻の『帰還』までしか出ていなかったのです。)
本は何でもそうですが、その人間に必要な≪時≫、タイミングというものが必ずあると思います。
長年読書経験を積んで来られた方ならきっと首肯していただけると思いますが、子どもの頃や10代の頃にどこがおもしろいのか理解できなかった本が、20代、30代になって目の前の幕が上がったかのように、その本の中に取り込まれるような経験をすることがあります。(逆に、あんなに夢中になっていた本が、大人になってから読み返すと、幼稚で狭量な世界観だったことに愕然としたりすることもありますが。)
「ゲド戦記」の場合は、4巻まで出ていたことが、わたしの場合は幸いしました。
子どもの頃にこのシリーズに親しんだ方にとっては、3巻までの大団円で物語世界がいったん閉じていました。
そこへ4巻が出て、しかも内容があんなだったので、昔からのファンにとっては歓迎の気持ちよりショックの方が大きかったようです。とあるファンの方は「バットマンがコスチュームを自分で洗濯しているのを見てしまった気持ち」とおっしゃっていました。今でこそアメコミのヒーローたちも人間くさかったり所帯くさかったりするのは当たり前のようになってきていますが、当時はまだヒーローはただただ「かっこいい」ものであり、そうあってほしいというファンが多かったのだろうと思います。
かつてアースシーで最高の魔法使いだったゲドは、3巻でその力を失ってしまい、ただの中年の男性となって故郷の島ゴントへ帰ってきました。ゲドを愛し育ててくれた師のオジオンはゲドを待つことなく逝ってしまい、2巻で「ぴったりの腕輪の片われ」だったテナーも他の男性と結婚して子どもをもうけ、彼女の人生を歩んでいました。
これまでの自分の人生を土俵から仕切り直しを求められるという、「中年の危機(ミドルエイジ・クライシス)」を絵に描いたようなこの4巻のお話は、率直に言って、大ファンのわたしから見ても、一つの小説としてよくできているとは思えないものでした。フェミニズムの問題など、素材が煮込まれずにそのままサーヴされていて、生臭く、謎は残されたまま物語は終わってしまうからです。
ですが、この4巻がなければ、わたしはこのシリーズを、とてもおもしろいファンタジーの一つとして読み流してしまっていたと思います。やはりこれもタイミングが良かったと思います。
10代で読んでいた『闇の左手』も、今思えば、どれほど画期的な作品だったか窺えます。
SFとしての位置づけはわたしには語れませんので専門家の方に論をお譲りしますが、主人公が白人ではないこと、冬に閉ざされた惑星でクマノミのように発情期だけ男女の性別が決まるゲセン人という設定が問いかけるジェンダーの問題など、21世紀の今もって解決されていない問題が盛り込まれていたことがわかります。
ゲド戦記の中心人物たちも、ゲドを始め、ネイティブアメリカンを想起するようなテラコッタブラウンやダークな肌色をしています。肌の白いカルガドの民は、むしろ敵対する悪役として描かれていました。
ゲド戦記がテレビドラマ化されたとき、原作の意をあまりにも汲まなかったことにル=グウィンは烈火のごとく怒りを表明されましたが、テナーがアジア系を思わせる面立ちの配役だったことだけは褒めてらっしゃいました。それくらい、白人優位のキャラクター配置にならないように、作品世界を創造されていたということです。
また、大人向けの作品ではもっと直裁に描かれていますが(『所有せざる人々』など)、ル=グウィンは同性愛表現にも早い時期からリベラルな作家でした。
ゲド戦記の1巻の『影との戦い』も、これはもしかして同性への恋情という意味での愛なのでは?という描写が出てきます。翻訳ではそこは「友情」と訳されています。友情も愛の一つには違いないし、その解釈は大好きなのですが、現在、ポリティカル・コレクトネスを重んじるなら、それはやはり「愛」と訳すべきだったかと思っています。(『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の新訳が出たときに、同じ点で指摘や批判があったのを見かけました。)
明晰で読みやすく、端正で美しい文章と、深遠でメタファに満ちた詩のような美しい物語、それらはもちろんル=グウィンという作家の持ち味です。ですがそこに、エンタテインメントにおけるポリティカル・コレクトネスとは何かという、21世紀の今になっても取りざたされている問題に、すでに半世紀も前に自覚的に切り込まれていたということに、改めて驚きと敬意を覚えます。当時は今以上に露骨に、「白人が主人公でなければ売れない」と言われていたそうですから、なおさらのことです。
おそらくル=グウィンは今で言うところのポリティカル・コレクトネスを意識して、小説を書いたわけではないのかもしれません。ただ、本来そうあれかしと思われる世界を描いただけというふうに見え、そこがかえってすばらしいとも言えます。差別や分断のない世界とは、「当たり前に」みながそこに一人の人間としていること、それが尊重されていることだと思うからです。
それでいて、世界の冷酷さ、苛烈さも内包する世界をきちんと描いてくれる作家でもありました。肌の色やジェンダーによる差別がない世界でも、やはり人間はどう生きてもつらいということを容赦なくつきつけてくるのです。何かがフェアな世界だからといって、そこを安易にユートピアにしないのも、ル=グウィンの優れたところだったと思います。
ル=グウィンの作品、特にゲド戦記シリーズへの思い入れを語り始めると際限がなくなるので、(すでに十分長いですが)これ以上長くならないうちにたたみたいと思います。
ル=グウィンさん、美しい、厳しい世界を、作品を、ほんとうにありがとうございました。
どうぞゆっくりお休みください。
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以下おまけ。
ただの宝物(持ち物)自慢です。
(右)"A Wizard of Earthsea"(『影との戦い』)北米版初版。
(左)"The Other Wind"が出版されたときに洋書販売店で見つけたサイン本。
まだ翻訳が出ていなかったときに辛抱たまらず読んだ"Tales from Earthsea"。付箋でびろびろでお恥ずかしい…。