愛の逃避行か 男だけの一人よがりか
『源氏物語』の主人公光源氏と紫の上は正式な婚姻関係を結んでいない。
光源氏による強引な掠奪によって二人の関係は始まり、このことは物語のその後の展開に大きな影をおとしている。
平安物語文学は『源氏物語』のみならず、『伊勢物語』『更級日記』などでも掠奪婚=「男が女を盗む話」を繰り返し描いてきた。
男はなぜ女を盗むのか、女はそれにどう対処したのか。
新たな切り口で千年前の物語が甦る。(帯より)
今年は『源氏物語』千年紀だそうでございますが、古文が嫌いだったわたくしの『源氏物語』との接点と言えば『あさきゆめみし』と学生時代、国文の友人が貸してくれた田辺聖子訳の『源氏物語』と高校までの教科書・問題集まで。以上、ありをりはべりいまそかり。
しかし、「紫の上は幸せだったか?」と問われると、わたくしのように「え? それは問題提起になるんですか? だって源氏物語の男つったら主人公を手始めにみんなサイテ(カッ☆)(←眉間になんかささった音)(…がく。)」と考えてしまう者でも、つい、手が出ます。
たいへん興味深く、(重い内容でしたが)読んでいてわくわくするような新鮮な本でした。
いえ、平安文学にこのような切り口で攻め込んだ方が、今までだれもいなかったのだとすると、そちらの方が不思議なくらいでした。
著者の方は寡聞にして存じ上げませんでしたが、ものごとの切り口、見方、考え方が非常に柔軟で、読んでいて気持ちが良いです。
著者は新潟の女性監禁事件の加害者(男性)と被害者(女性)の意識の差をひいて、平安のものがたりに登場する男女の心の内面にも思いをはせておられます。
この比較が果たして適切かどうかは置くとしても、男のファンタジーというかドリームというかのはた迷惑っぷりと、女性にとってどんなに残酷で取り返しのつかないことか。男の単純さと相手を思いやることの出来ない想像力の欠落が生む悲劇を、まざまざと描き出してくれます。
(この男性の”ファンタジー”が良い方へ作用すると、本当に、「いやー女にはまねできないっすよ(場合によってはしたくもないが)」というか、見ていて胸がすくような感動を与えてくれることもあるのですが。ほんっとーに、諸刃の剣でございます。ま、なんだってそうなのでしょうが。)
平安時代、特に貴族の女性に、女としての権利どころか人間としての権利もないのが当たり前、みたいな論法で、さまざまな解説書や感想が書かれることに違和感を感じ、わたくしの古文嫌いに拍車をかけたのかもしれません。
特に『源氏物語』は素晴らしい、以上、異論は認めん。という排他的な硬直化した雰囲気がイヤだったのかも知れません。(「主語がない、わかりにくいから悪文だ」というかの有名な「源氏物語悪文説」がありますが、いやいや、そもそも日本語には人称の主語と二人称はない。というたいへん男らしく、しかもその根拠が説得力がある説もあり、だからといって文学作品として駄作だということでもないとは思いますが)
ところで、この著書の中で、まず『伊勢物語』の「芥川の段」、いわゆる「鬼一口」のものがたりについて書かれるのですが、(そしてわたくしは
もちろんそんな話があったっけな。と思ったクチでございますが)ここで登場する「鬼」って何なんでしょうね。
もちろん、いくら平安時代でも鬼が物理的にいたとは思えませんので、何かの象徴だと思うのですが、ではいったい何の象徴なのでしょうか。
古文に造型の深い方、ぜひご教授くださいませ。